礼拝・説教

クリスマス礼拝「告知」ルカによる福音書2821P103231224阿久根伝道所牧師

                                    竹花牧人

 クリスマスおめでとうございます。アドベントの蠟燭も4本火が灯りました。季節も12月らしい寒さを迎え、震える毎日となっております。そんな寒く震える日、今から2000年前、誕生されたお方がおりました。「イエス様」です。

 クリスマスのお話しをする前に、少し聖書のお話しをします。聖書は旧約聖書、新約聖書の二つの文献を合わせて正典とし一つで聖書と呼ばれます。この二つがなければ、キリスト教は説明が出来ません。旧約聖書の一番初めに何が記されているのか?それは『神は天地を創造された』『光あれ』です。宗教という言葉がない時代伝説のようなお話しから聖書は始まります。この旧約聖書の主人公は、各書において何人も登場します。アダム、エヴァ、カイン、アベル、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、続く出エジプト記という書にはモーセが登場します。聞いたことがないという方もいるでしょう。学生時代の世界史の授業を思い出してみてください。ダビデやゴリアテ(ゴリアト)ソロモンという人物が登場したことが記憶にないでしょうか。世界史でイスラエル民族の歴史、イスラエル統一王朝の歴史です。後に分裂し、北王国、南王国となります。ここら辺までが歴史の授業でならう事です。何故、このような聞いたことがない名前を並べたのかと言いますと、旧約聖書は、イスラエル(ヘブライ人)の苦難の歴史を通して、人が「神様」によって救われるという壮大なお話しなのです。その救いの中、多くの主人公達が「神様」の前に立ち善行を行い、そして反逆し「罪」を犯す、その繰り返しを描いているのです。その「神様」に反逆した結果の最も大きな逸話が「バビロン捕囚」と言われる出来事です。先に述べたイスラエル統一王朝を滅ぼした、アッシリアと共に記されるバビロニアという国による、強制連行です。イスラエル民族は有識者をはじめ、文化文明の主要な人々全てを連れ去り、残った人々は最早民族のアイデンティティを保つことは出来ない位に苦しみに陥りました。その苦しい、苦しい、時代の中で且つての過ちから何度も救いと癒しを下さった「神様」を再び思いだすのです。人びとはここで初めて「メシア」(救い主)の登場を願うのです。

 

 「イエス様」を当時の人々は何と言っていたでしょうか?「ユダヤの新しい王様」「救主」(メシア)「予言者エリヤの生まれ変わり」そして、最もポピュラーな表現が、「革命者」としての姿です。当時のイスラエルはヘロデという王やローマのピラトという総督、皇帝ネロなど、人々は圧政に苦しみ、疲弊しきっていました。その渦中に星読み学者達により、この苦しい時代に、かつて旧約聖書で述べられた「新たな王」(革命者)の星が見えたというのです。苦しかった、辛かった、絶望だったその時代についに「神様」からの「救い主」(メシア)の誕生という約束が訪れたというのです。

 

 一つ重要な点があるので踏まえて・・・・・イスラエルという民族は世界で一番貧弱だったため、神様はこの民族を選んだとあります。つまり、弱者が用いられ、その弱く脆い人々に「神様」は「救い主」(メシア)を送ったとされる事です。

 

そしてようやく本日の聖書箇所に入ります。まず、「神様」のお告げを「天使」が語ります。それを一番に聞いたのは、「羊飼い」でありました。この「羊飼い」という職業はこの時代での3k「きつい」「汚い」「危険」の社会で底辺にいる人々です。何故そのような弱く小さくされた者達に「お告げ」が最初にきたのでしょう。・・・それこそまさに、「神様」は世界で最も貧弱で弱い存在を選ばれるという旧約での神様の選別から分かります。「弱さこそ誇るべき強さ」という解釈です。弱さを知る事はどんな相手をも知る手がかりとなり、それが世界を変えるということです。「羊飼い」達が一番初めに「イエス様」にお会いしたという事は、「イエス様」はその底辺と言われた人々の為に世界にやってきたという事です。12節に『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』「しるし」とは、あなたがたはこれから「救い主」に用いられるという事です。「あなたがたは、・・・・見つける」これは非常に強い文章です。「神様」は天使を動かし、はっきりと語りました。つまり、見つけるのは「羊飼い」であるあなた達であるのだと、強調し、彼らの存在を際立たせています。

 

 このようにして「イエス様」の「誕生」は知らされました。「告知」という題ですが、マリアとヨセフにではなく、「羊飼い」に焦点を当ててお話しをしています。しかし、この「イエス様」の誕生が「産む」マリアと見つける「羊飼い」に共に「天使」が現われて「お告げ」をしていることは非常に面白いです。19説に『しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた』マリア自身に訪れた天使の知らせを、自分以外で初めて知らされたのが「羊飼い」であったこと、マリアにとっても「羊飼い」であったことは恐らく今後の「イエス様」のお働きを心の中で想像していたのでしょう。

 

 このようにして、「イエス様」は誕生されました。不思議な出会いをしたマリアと「羊飼い」達でしたが、その出会いこそ、「イエス様」が成長したのちに人々を何の偏見も無しに誰しもを「隣人」として「愛」をもつ優しさに繋がります。さらに、世界に「神様」の尊さと普遍の「愛」を教え、それが、且つて、何度も、何度も「神様」に反逆した人間に、人は誰もが「苦しい」であるけれども、「神様」はその最も苦しい「羊飼い」を用いたのだと聖書は語ります。

 

 お話しを変えます。

 私が子供の頃、クリスマスは一年で一番嬉しくてたまらない日でした。親戚が集まり皆でやるトランプやウノはとても楽しく、皆クリスチャンであったこともあり、父や叔父、祖父が語る牧師の話がとても面白かったのです。それこそ、今関わらせてもらっている「めぐみ園」の子供達と同じ位の年齢時でした。サンタも信じていましたし・・・・とにかくクリスマスは美味しものが食べれて、プレゼントが貰える、そして一番は「イエス様」の誕生のお話しを聞けるということでした。絵本や紙芝居では何度も見聞きしていましたが、実際にお話しを聞くというのは、不思議にも未だに覚えているのです。やんわりですが、クリスマスは「イエス様」の誕生日という事は忘れたことはありません。この忘れないというのは、自分がキリスト者であるからという訳ではなく、ただ「大切な人」が生まれた日という記憶です。「命」の誕生は素晴らしいです。この年齢になると、私の周りの友人たちも結婚や出産が多く幸せのおっそわけをいつも頂いていました。

 「イエス様」の誕生が自分の子供というわけでもなく、親族や友人の子供でもない、それなのに強烈に記憶していて、その日が来ると心が躍るという感覚・・・それはきっと、「イエス様」が世界の全ての人のための「子供」だったからでしょう。「神様」がわたしたちに「愛」をもって世界を変えようとしてくれた姿だからだと思います。

 

 

 クリスマス改めておめでとうございます。    祈ります。

「先駆者」マラキ書31924P1501231217      阿久根伝道所牧師竹花牧人

 正しい「その日」のための準備を・・・神様が「キリスト・イエス」を地上に送られたのは、正しい人たちを救うためであり、さらに、神様が正しくない人達を滅ぼさないためです。「神様」を人間的に表現するなら、激情の存在、又は愛あるお方、これは聖書に幾つも記されています。創世記まで遡れば、「神様」は激情で怒りを持つことに注意が向けられます。その怒りを回避する為、神様との約束を守ることを、人間に求め、それが人間にとって一番良い状況だというのです。だから信じなさいと強く述べ時には怒りをもってお叱りになります。しかし・・この神様は「愛」を持った「怒り」から、完全な「愛」のみを持った存在へと変わっていくように見えます。この人間に「愛」を持って接する存在が「キリスト・イエス」なのです。人間は創造され今に至るまで、根本的に「罪」を持つ存在として変わってはいません。恐らく、「怒り」の神様なら、人間を滅ぼしていたでしょう。しかし、「愛」をもってこの意地汚い人間を滅ぼすのではなく、人間は罪深くても守ってあげたい愛しい存在なのだと、神様は人への思いを変えられます。24節『彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように』「キリスト・イエス」は神様の「愛」を受け、そして、その「愛」を神様に返しているのです。その愛情の連鎖を人間が知る事で、神様の「激情」がなくなるようにという願いです。

 

 何事にも「始まり」があります。音楽の起源、各種スポーツの起源、料理の起源、絵画の起源・・・・・この世の全てには「始まり」があります。人間の起源は「アダム」と「エバ」と信じられています。

 私は音楽のジャンルで一番好きな物がロックンロールです。邦楽では、ザ・ミッシェルガンエレファントやブランキ―ジェットシティ、ザ・ブルハーツなどです。この大好きなミュージシャン達も、初めは、ラモーンズやクラッシュ、セックスピストルズなど、大きな影響を受けました。ありとあらゆる物には始まりがあり、純粋にオリジナルというものは中々見つける事は困難です。全ては派生形なのです。しかし、わたしはこの様々に派生した形がその時代の環境を捉えているようで素晴らしい物だと感じます。

 基礎があるから、それは形となり多くの文化が誕生しました。20231126日・・・先月ですが、私には絶対に忘れる事が出来ない日になりました。先に少し触れましたが、ザ・ミッシェルガンエレファント、Rosso、ザ・バースデイのギターヴォーカリストであったチバユウスケさんが55歳で亡くなりました。彼は、私の生き方の師匠のような存在でした。ライブも行き生で声を聴くことができるときはいつも歓喜の叫び声を上げていました。生き方がロックンロール、お酒と煙草が大好きで、インタビュー記事を読む度に傍にはビールと煙草がありました。本来インタビュー時に喫煙や飲酒は好ましくないだろうと思われますが、チバ氏の場合はあって当たり前で自然なのです。それほどにロックンロールのチバさんという存在は昨今の音楽業界の中では、大変尊敬され、偉大なミュージシャンだったのです。メディアにはあまり出ませんが、たまにTVに出ているのを見ると、ニヤニヤが止まりません。嬉しくて、こわもてでもとても優しい方でした。

 

 「その日」というのは、恐らく早いも遅いもないのです。その時がきたら「神様」の元に行くのです。健康的でいようや、不健康でいるという環境で、長寿になったり、短命になったりは確かにありますが、自分の生き方に嘘をつくことの方が私は気持ちが悪くなります。正しい生き方なんてものは人の数だけ存在します。その自分の生き方に嘘をつかないという事が、「神様」によって全肯定される形ではないのでしょうか?神様に嘘をつくことがあったりします。でも、神様によって生かされている中で自身の生き方を全力で行えばそれはきっと、「神様」に愛される生き方であり、その人生は「頑張ったね」とほめてくださるものだと思うのです。

 

  私たちは「神様」の沿った行き方が何であるのかは分かりません。律法を守れば良い、であったり、「神様」の前で得を積めであったり、それが分からず、聖書の迷子になります。模範となるのは「キリスト・イエス」の生き方だけです。しかし、この現代において、当時のユダヤのような生き方は出来ません。それでも、なるべくは質素になどと言いミニマリストや、修道院生活や、アーミッシュのような人たちがおりますが、それも、本当に聖書的であるかといえば分かりません。つまり、形ではないんです。「神様」が求めておられるのは、どんな環境でも「神様」が中心にある生き方です。目に見えて派手でも、質素でも、「神様」を中心に生きているそれが、正しいと言われるいき方です。亡くなった日が「その日」であるのなら、「その日」に「神様」に「頑張ったね」と言われる生き方をしましょう。

                                祈ります。

 

 

「神の言葉」列王記上22:1-5(P572)231210      阿久根伝道所牧師竹花牧人

 「神様」の言葉とは・・・今朝の聖書個所ではアラムという国とイスラエルという国が三年間休戦(停戦)している状況下でのやり取りです。ユダという国の王が、イスラエルを訪問した時です。この頃は既に統一王朝は分裂し、北王国(イスラエル)と南王国(ユダ)に分かれていました。北側の領地の問題でアラムとイスラエルは問題が起きていたのです。三年戦争が起こらなかった事は平和という意味では大変意義あることですが、この間「ラモト・ギレアド」という土地がアラムに支配され続け、取り返さなければとイスラエル王は神経をとがらせていました。その状況の中でのユダの王ヨシャファトの訪問です。もとは同じ国、イスラエルの王は彼にこう言いました。4節a『わたしと共に行ってラモト・ギレアドと戦っていただけませんか』ユダの王は、イスラエルの王以上に、イスラエルとの共同歩調に重きを置いています。それが4節b『ヨシャファトはイスラエル王に答えた。わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です』全面的に協力をしますと語ります。しかし・・・重要な事がありました。この土地奪還が「神様」からの勅令であるのかということです。5節『しかし、同時にヨシャファトはイスラエル王に、まず主の言葉を求めて下さいと言った』とありますから、「神様」が個人的な土地奪還を指示しているのか、祈りましょうということです。

 

 イスラエル統一王朝が分裂した理由がここに見る事が出来ます。「神様」を中心とした信仰共同体であったイスラエル民族が王を求め、王政を得るにいたりましたが、その王の不信仰が原因で国は別れ、分裂した片方では、祈り聞く事を忘れ、独裁的に軍事力を持って戦争をしようとしていたのです。しかし、片方はまずは「神様」に聞きましょうと言いました。この信仰のあり様、そして「神の言葉」を真摯に聞くことを忘れてしまったがために三年の平和を潰そうしました。

 

 戦争の形は時代が流れていく度に変化していきます。大昔は青銅の武具を身に着け白兵戦、総力戦を行い、数に物をいった戦争が主流でした。そしてそれが変化しました。鉄を使った武具を扱うヒッタイト人達の登場により青銅は戦争から消えます。遠距離は弓矢が主流でしたが、時代は鉄砲の登場、火薬武器(大砲)により、白兵戦以上に火力の存在が戦争の勝敗を決めるようになります。そして、爆撃機や軍事ヘリコプター、戦闘機の登場、長距離ロケット、最終的には核兵器と・・・・戦争は世界からなくなる所か、経済の一大マーケットとして存在し続けています。戦争の形は変化していきましたが、戦争の動機は何ら変わっていません。侵略、思想の押し付け合いであったり、宗教観の違いによる戦争、現代でのウクライナへのロシアの軍事介入はまさにその典型です。侵略戦争です。名目はウクライナのNato加入という情報に対する東側諸国の過敏な反応です。確かにかつてNATOへの加入はこれ以上は認めないという約束事を交わしていましたが、一主権国家が独立した国がどこと手を組もうとそこに否を唱え戦争を仕掛けるのは、あまりに自国がやられるという被害妄想の行き過ぎた愚行です。戦争が白兵戦から兵器戦になった今、昔よりもリスクが無く攻撃をすることが可能となり、死傷者も短期間で多くの人たちが亡くなるようになりました。

 

 血がながれるというのは、昨日まで笑いあっていた家族や友人や恋人が、理不尽に殺されるということです。そこには悲しみしかありません。

 

 お話を戻します。イスラエルは三年戦争をしませんでした。アラムも仕掛けてこなかった。自国の領土だと主張し続けてその平和を崩す行為をだれが良策と思うのでしょう。日本にも、北方領土問題があります。ロシアと日本がお互い領土の主権を主張しあっています。何十年も日露で戦争は起きていません。神様は、恐らく現状の維持を保ちなさいと言っていると思います。「神様」の声を聞け・・・・・・それは戦争をするなということです。神様は戦争を赦しません。どんな理由があってもです。人間同士が殺し合う事を正しいことだと誰が思うのでしょう。

 

 最近よく聞きます。侵略されたらどうするんだ?備えて軍備増強をしようと。キリスト者が「頭の中お花畑」ですねと言われた事を聞いたことがあります。侵略されないように抑止力を持っておく事が「国」という集合体には必要というのです。

 

 アドベントに入りました。「イエス様」がお生まれになった日が刻一刻と近づいています。「イエス様」がお生まれになったのは、世界から争いが無くなり、社会が神様の「愛」に気づき、全ての人が隣人となり、手を取り合って平和に暮らせるようにという祈りが実現されるためです。「イエス様」の誕生を最初に告げられたのは羊飼い達でした。彼らは当時の社会の最底辺層にいた人達です。彼らの前に一番初めに現れた理由は、苦しく辛い、その当事者に「命」の誕生によって何の役にも立たないと思っていた自分達が世界の誰よりもその瞬間用いられた、必要とされたと思うことが出来るようにするためです。

 

 命の誕生の素晴らしさは分かりました。ならば、命が亡くなる理由も神様がご計画している安らかな物であってほしいです。個人的な憎しみや、争いを行うのは人間の計画であり、神様の計画ではありません。いつも、いつも、神様の計画を潰すのは人間です。どうか、神様の言葉が、正しく伝わり、命が軽んじられない世界へと変わりますように。

                               祈ります。

 

「主の来臨の希望」イザヤ書52:1-10(P1148)231203 阿久根伝道所牧師竹花牧人

 私は小さい頃から「歴史」の授業がとても好きでした。特に中世ヨーロッパ、近代日本、世界史、日本史共に大好きでした。歴史を知るという事は、学校に通う事で義務教育を通して、一通り学びます。さらに専門的に学ぶなら大学にて学ぶでしょう。私は、牧師なる前に、二つなりたい夢がありました。一つはミュージシャンです。プロのドラマーになりたくて、学生時代から今でも続けています。そしてもう一つは考古学者です。私の世代に「インディジョーンズ」という映画があります。その中で登場する主人公役のハリソン・フォードが大変かっこよく、大きくなるまで、学者になり冒険したいと思っていました。

 

本日の聖書個所は歴史の側面と神学的な側面の両方を見る事が出来ます。

 

 まずは歴史的側面です。イスラエルという国は、初代の王「ダビデ」によって建国されイスラエル、南ユダを一つにし統一王朝を築きました。後にソロモン王が引き継ぎ繁栄を極めます。しかし、ソロモン王時代の後期に王の罪深さから国は混乱し、国は分かれます。そして、まずは北王国が滅び、次に南ユダ王国が滅びます。この王国崩壊の大きな要因はアッシリア、バビロニア帝国の侵略にあります。特にバビロニア帝国は、イスラエルから有識者を多く連れて行き、イスラエルの民族のアイデンティティを奪い取りました。民族的な指導者も多く連行し、エルサレムは崩壊しました。これを俗に「バビロン捕囚」と言います。ペルシャ王国のキュロス王が登場するまで、イスラエルはこの「捕囚」にくるしみました。自分たちの信じる「神様」に祈る場すらない。そして長くバビロンに滞在していた事が原因で、民族は第一世代、第二世代と捕囚により神様を知らない人々が多くなりました。

 今朝の聖書個所はこの捕囚からの民族の回復を記しています。再び「神様」の偉大さを我々は知り、そして、このような苦しみはもう起こらないと約束されます。1節『奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない』

 ここで、注目するべきことは、この捕囚からの解放は「神様」が王になられたことにより実現したという事です。帰郷したさいぼろぼろになったエルサレムに人々が打ちひしがれていた時、捕囚からの救いに大いに感謝し、心から「神様」を賛美しました。直接的な歴史的な史実ではキュロス王による解放ですが、それを促した目に見えない力こそ、「神様」なのです。

 神学的な側面ですが、イスラエルの人々が苦しんだ「捕囚」により、奪われた信仰が再び燃え上がり、国の再建が進んだという事実に見てとれます。「神様」が救って下さったと信じる心が復活し、「ユダヤ教」ですが、今苦しみの中にあっても、必ず「メシア」が現れるという信仰へ進んでいきます。

 

 信じる心とは本当に偉大です。捕囚から帰郷したほとんどは信仰とは何か?というぐらい「神様」から離れ、祈ることも忘れていました。それでも、民族に受け継がれる「神様」への恐れと遜りの心は消えないのです。心の中でたとえそれが、消えかかった蝋燭に灯る火のようであっても、消えないのです。

 

 私たちもまた、何度も、何度も、「神様」から離れても、この火は決して消える事はありません。常に灯り続けそれは必ず、たいまつのような大きな炎として下さいます。私たちが「神様」を忘れても、「神様」は決して私たちを忘れないのです。私たちの信仰もまた消えません。小さくはなっても消えません。記憶に無くなっても消えません。

 

お話を変えます。

 私の大好きなアニメーションで「フェイト・ステイ・ナイト」という作品があります。そこに三人の「王」が登場します。特徴を見てみます。一人はギルガメッシュ(英雄王)という人物ですが、彼は「民は王のために存在し、民は王の為なら命も心から差し出すべき」だと言いました。もう一人はイスカンダル(征服王)彼は「王とは民に力を示し、その存在は王と共にあり、運命共同体である。つまり、偉大な王は王として民に尊敬されるべきもの」だと言いました。最後にアーサー(騎士王)は「王は、民の犠牲の上に立つ者ではなく、自身の犠牲を伴ってでも民に手を差し伸べる存在だ」と述べました。

 

 9節『歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた』

 王なる主は、上の三人の王のどれとも違います。決定的な違いは、「神様」は全知全能であり、人の「王」が如何に尊厳ぶっても、人の力以上の事は出来ない、つまり「神様」が王であることで、あらゆる苦しみや悩みが去るのです。私たちは、この主の来臨がある事を信じます。どんないに悪政であっても、全て来臨によりまっさらな状態に戻り、以前よりもはるかに良い物として下さいます。信じましょう。そして感謝を。    祈ります。

 

「約束」出エジプト記2:1-10(旧約聖書:P95)231119 阿久根伝道所牧師竹花牧人

 

 11月になると、毎年気持ちが塞がります。それは何故か。理由は親友が天国に行った月だからです。今では神様の国に行ったのだと心穏やかに思うのですが、それでも、どうして彼が?何故あの若さで?と私は昔の事を思い出します。今朝の聖書個所は本来であれば、助からない「命」が神様の意志としか思えない業にて、命が救われ、成長していくというお話です。

 はるか昔、ヨセフというイスラエル人がエジプトにて出世し王様(ファラオ)の最も信頼される高官に抜擢され、彼の身内たち、イスラエル人がエジプトに招かれ安全、安心に暮らせるように図りました。年月が経ち、このヨセフを知らないファラオがエジプトを治めるようになり、急増したイスラエル人を疎ましく思うようになりました。そこで、ファラオはこれ以上イスラエル人が増えて力を持たないように、イスラエル人の赤子の中で男の子を殺そうとしました。そして、今朝の主役である、モーセもまたこの殺害対象でした。本来なら死んでいたであろう状況の中、家族の機転により、ファラオの王女に救われ、生みの母も乳母としてモーセの成長に関わる事ができるようになりました。

 

 この「命」が用いられるという言わば奇跡とも言えるような偶然は誰にでも起こる物ではない・・・・というように見えます。神様が今、人間の世界に必要だと思われる人材に手を差し伸べているように見えます。酷い話です。そもそも、赤子が沢山殺された事件の中明確に「命」を救われたと記されているのは、モーセだけです。モーセは後のイスラエル解放の指導者として選ばれた存在であったがために「命」を救われたのでしょうか。これでは、命の平等性という物が完全に否定されてしまいます。しかし、これには理由がありました。「旧約聖書」には実際「選び」という概念がありました。

さらに、新約聖書でその時代に何度も、「選び」の概念が実現されるために、と、様々な事象が実際に起こり、それが預言通りになったと説明しているのです。そう、「イエス・キリスト」が誕生したのも「メシア」が誕生するという「預言」が実現されるためであると言われています。つまり、当時の事件が起こるべくして起きたと説明されるために、実際に現実に行われた事象を過去の預言に結びつけているのです。これを信じるか否かで、「ユダヤ教」と「キリスト教」の違いになります。

 

 お話が逸れましたが、私たちが信じる「キリスト教」はどんな人にも平等に「命」があり、救われています。モーセのような「選び」のような偏った命の選別はありません。どんな「命」も「神様」の前にて平等に扱われます。では、現代において理不尽に奪われ、生きる事より「死」を選択せざる得ない状況を、「神様」は平等に生きる「命」として本気で考えていらっしゃると私たちに思わせえるものでしょうか。

 

 「イエス様」の愛ある十字架と復活により、全ての人間が「神様」に愛される存在となりました。専門用語では「神との和解」とも言います。しかし、その赦しから2000年経った今も、人同士の争いは無くならず、IT時代と言われる今の時代はその技術からかつては無かった形で人を陥れたり、攻撃するなどのツールに変わり、時代の中では何時の時も必ず人が人を傷つけるという行為が消える事がありません。

 

 何故なのか??どうして人が救われる約束を神様が私達と結んで下さっているのに、それが現実にならないのか。何時も何時もその約束を壊してしまう。その度に神様は赦して下さるのですが、私は怒りと悲しみをこの時期抱くのです。私の親友は何も悪い奴ではありませんでした。真面目で、勧めた聖書もたまに読んでいたみたいです。「神様」のご計画では、彼の「命」はこの時期であったのでしょうか・・・・・・・・・・・・・・

 

 人間がいくら考えても、「救い」についての答えは出ない、それが結論ですが、今は「命」の救いと神様の約束は、人間の有限の時間感覚とは全く違うものと認識しています。聖書には、神様の国では一日が千年と言われており、単純に神様からすれば人間の歴史は2000年とは2日しかたっていないわけです。

 

 恐らく、人間の争いを終らせるという「約束」ではないようです。人間の争いは決して無くならない、そこで多くの命が理不尽に奪われるという現実(リアル)は無くならないのです。しかし、人間の争いに直接「神様」は介入するのではなく、どの様な形でも、「命」を落とした人に、それ以上の世界があなたに与えられているという、心的な面での現実を優しくして下さるのが神様の「愛」であるのです。だから、若くして「死んでも」老齢で「死んでも」そこには、同じ神様からの憐みと慈しみがあるのです。残された人は納得できないでしょうが、「神様」の国へ行ったのです。それが、今を生きている私たちがこの現実を全力で生きるための神様からの「約束」への応答です。何時でもその「約束」へ向き合えるように生きるのです。          祈ります。

 

「創造」創世記1:1-5、24-31(P1)231029       阿久根伝道所牧師竹花牧人

 テレビを見ていた時です。私はニュース番組をよく視聴するのですが、最近は、ガザとイスラエルの争い、そしてロシアとウクライナの戦争について多く報道されているのに気づかされます。これらは戦争です。特に、イスラエルの攻撃は正確な情報はありませんが、子供たちが多く非難していた、病院をミサイルで打ち多くの人が亡くなりましたとされています。そして、これは私にとってもう対岸の火事ではない事を実感させました。民族間、宗教観、紛争の歴史問題、全く解決しておらず、世間では第三次世界大戦になるとも噂されています。イランが軍事介入するのか、アメリカのイスラエル指示が中東の国々にどのような感情を湧き出させるのか。これは、氷山の一角です。日本は自国の経済回復に躍起になり、国内の安定化を推し進めていますが、しかし、この戦争に関してかつてのようにお金で支援するというものでは決して世界では認められないでしょう。これら戦争の鎮静化にどれだけ、心を込めた政策をしていけるかが今後の世界での日本の立場を決めると思います。

 「創造」とは、1節『初めに、神は天地を創造された』2節『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた』3節『神は言われた。「光あれ」こうして光があった』4節『神は光を見て、良しとされた。神は光と闇をわけ、・・・』世界は何もないとこらから始まったのです。無いというのは人間の感覚で捉えるなら「五感」全てが機能しなくなり自分の存在を自分で確認できない状態と言えるかもしれません。そしてそこには、「思考」することもありません。つまり、肉体があるだけという状態です。空っぽの器です。闇とはこの器ではないでしょうか?神様は、空っぽの器に光、大地、生物と作られ「世界」を形作りました。この地球という星に多くの生き物を誕生させました。この星すらも「神様」が作られました。しかし、「神様」はこの地上に悪い心を持つ人間の増加に心を痛められます。創世記6:6『地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた』旧約聖書の「神様」の姿は、人間の持つ感情に非常に似ている所があります。「神様」が後悔するなど、私たちは「神様」にも人格のようなものがあるのかと、人間と「神様」の距離が近いと感じます。しかし、だからこそ、「神様」は深淵の闇の中に「生命」を誕生させなかったのです。「光あれ」、よく考えると、「光」がなく闇の状態でも「創造」は出来たはずです。しかし、そうはせずに「光」を器に入れ愛情を持って「創造」されました。それ程までに、大切に私たち被造物は生まれました。その「創造」の成果を「神様」は31節『神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった・・・』

 

お話を変えます。闇の中に生まれ、闇しか知らない、そのような人間が仮に存在しているとします。光が何なのか?そもそも光というものへの認識すらできないそのような状態で如何にして「神様」の光の世界を安住の地として受け入れる事ができるでしょうか。この地上に命を得て生まれた人間が神様の意図とは反対に、安住の光ではなく、命を奪い奪われる闇の世界であったならば心から、私は人間の持つ邪悪さを嫌悪し、神様に「光あれ」と言われた世界に誕生してきた喜びを心から感謝出来る世界に変えたいです。

世界中にこの世界に生まれて来たことに喜びを見出せる環境を私たち人が壊しているのです。宗教、民族、肌の色、男性女性、障碍者と健常者、全く関係ありません。全ての人が生きていてよい存在なのです。神様は「良い」と言ってくれたではありませんか。今、この違いを理由に戦争が起きています。命が消えていっています。人間に命の采配権はありません。「神様」にだけ存在します。神様が「良し」とした世界を泥まみれにしていると私達は知らなければなりません。「創造」されたのは「神様」の「愛」ゆえです、だからこそ「命」は神様の「愛情」の証しです。なにやら理由を付けてその「神様」の愛情を踏みにじるならそれこそ、「神様」への冒涜これが結果どうなるのか、それは聖書に幾重にも記されています。

さらに、そもそも人間の歴史で命が失われる状態が無くならないこと自体が神様の怒りとも捉える事ができるかもしれません。言っている事とは反対ですが、これも一つの視点です。争いを何故「神様」は超自然現象のような業を持ってでも、止めてくれないのか、「神様」は何故、助けてくれないのか、それは、人という器に「思考」するという力を「神様」は与え、人間は人間として生きて行くようにとライオンを落とすように「人間」がもつ「良心」「理性」に賭けているのです。それこそ、人間が絶滅する勢いになってもまだ、人間の心を見ているでしょう。そこでやっと、やっと、「神様」争いを止めて下さいという遜りの心が生まれのでしょう。

 

「神様」が良いとされた者達である我々が自ら破滅しようとしている・・・・この苦しみに創造主はいつ応えてくれるのか。世界が一気に変わることなどありません。だからこそ、身近な人たちから変わっていきましょう。それは必ず世界中に広がって行きます。「イエス・キリスト」は世界に伝道する意義をお話してくれました。一人一人の変化こそが新たに「創造」されることなのです。祈りながら、一人、また一人と神様の声を聞く事ができる遜りの心が聖霊によって与えられる事を信じます        祈ります。

 

「裁きの日」フィリピの信徒への手紙1:1-11(P361)231015阿久根伝道所

竹花牧人

 共に何か同じ目的をもって共同することは永遠には出来ません。人間の有限から世代交代や継承問題など顕著です。そもそも人間の共同作業は神様と共に歩み、イエス・キリストを信じる信仰が大前提です(人間同士の作業は必ず途中でとまります。それを何の問題もなく進めるには完全な存在の導が必要なのです)。私たちが最も信頼でき、生まれてから死ぬまで、言い換えれば最初から終わりまで、傍にいて下さるのが「神様」なのですから。人間が仕事で重要なパートナーを失う事があるでしょう。それにより、仕事がはかどらなくなり、失速することがあるかもしれません。しかし、その代役は中々みつかりません。しかし、ここです。人間のパートナーは、人間は一人ではいけないという言葉から仲間を持つ事の重要性を説いていますが、パートナーを下さい、見つけられますようにとお願いする相手は誰でしょう?それは、創造主である「神様」です。その仲間を見つけその仲間を心から愛し大切にする気持ちこそ、神様と共にあるということです。だから今朝のパウロは3節『わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝して』4節『あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています』5節『それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです』これはまさに信仰の仲間を心から思い、共に神様を信じる事が出来る事に感謝している言葉です。

 

 人間が一人と感じる瞬間とはどんな時でしょう。家族、友人、知り合い、それら全てが無くなり、孤独にさいなまれる時でしょうか。しかし、信仰はこの悩みを解決してくれます。世界は広く、「神様」を信じ、イエス・キリストの十字架の死と復活を受け入れ、悔い改める信仰の友が世界中に沢山おります。それこそ、パウロのように獄中にいても、北極にでも、海の底でも、砂漠でも、信仰の友は存在するのです。そして、その仲間は一人一人が悩むことに共感し、祈ってくれます。神様は、このような信仰の仲間を大切にしなさいと述べます。そして、お互いに、信仰を高めあうことを勧めます。今朝パウロは、フィリピにいる人たちに、8節『わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれだけ思っているのかは、神が証してくださいます』だからこそ、パウロの神様から愛されているという喜びをフィリピの人達にも気づき味わってほしいのです。その信憑性は、まさに、パウロが獄中においても、「生かされ」この手紙を書くことができているということで証明されました。神様は私たちに、信仰の人となることを求め、どんな苦難にあっても必ず「生かし」信仰の友へその感謝を伝えるものとさせるのです。自分一人だけが、救われたと喜ぶのではなく、その救いを他の人へと伝えて行くことが、イエス・キリストの生き方であり、私たちが信仰を持つ事です。その姿こそ、イエス・キリストの再臨のさい、胸をはって神様の前に立たせてもらい心から神様を称える姿へと変容します。

 

 愛すること・・・・・これはキリスト教では大きなテーマです。自己愛、隣人愛、家族愛、恋人、生き物愛、それこそ、無機物にたしても好きを通りこして愛しているというのがダイバーシティの昨今です。一つ、こういうニュースを見ました。皆さんはボーカロイドという言葉を聞いたことはありませんか?現実にはいない創作のキャラクターがあたかも本当に存在し、歌や踊りを行いライブをします。驚くのはここからです。その架空のキャラクターと結婚した人がいるというのが本題です。婚姻届けも出し、結婚式も行いました。家には等身大のキャラクターのフィギアがあり、奥さんとして存在しているのです。私はこのニュースを見て、愛するということはありとあらゆる形で存在するのだという事で納得しました。聖書が執筆された時代には考えられないことでしょう。しかし、「愛情」とは目に見えないことですから、誰が誰をどのような形であってもいいんです。それが信仰の基盤にのっているなら「愛」は成立するのです。神様がわたしたちに無償の愛を提供している事、それは有機物、無機物などと線引きはされず、全てが愛されているのです。

 

 しかし、その愛が信仰にのっとっているのか、それが非常に大切です、9節『わたしは、祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり』10節『本当に重要なことを見分けられるように・・・』人間の愛情が一方的になり、誰かを傷つけるようになってはいけません。「神様」は人が持つ愛情にスパイスを持たせます。誰かを好きになる理由であったりきっかけです。そのタイミングを見極めることが出来るように、祈るのです。そして、その神様からのスパイスによって誰に対しても同じようにせっすることが出来るような感情の肉付けをし、豊かなものとしてくれます。その、「神様」からのアクションに気づき、人間の最後の時、「神様」愛を教えてくれてありがとう、愛するタイミングに気づかせてくれてありがとう、この感謝に満ち溢れることに賛美をし喜びを爆発させるのです。        

                                  祈ります。

 

「弱者をいたわる」フィレモンの手紙1-25(P399)231008 阿久根伝道所牧師竹花牧人

社会で必要な人材として重宝される人間とはなんでしょう?人間の関係とは、コミュニケーションが上手く、仕事もそつなくこなすような人が言わば「出来る」人の人間関係のように見えがちです。この関係性は何も、学校や会社のような社会に一歩出た場所だけに限った話ではありません。身近な「家族」との関係においても同じです。言葉が遅く、適齢年齢でありながら、言葉が出てこない子供に、親は非常に心配になります。関係性を言葉のあるなしで見てしまうのです。仮にこの人間関係が上手く構築できない人間を「弱者」としてみる時、この世界は「弱者」だらけです。人間は凸凹です。ある話題については詳しく自信を持っていても、その話を変えられた時、柔軟に会話に適応する力は、訓練だけでは到底カバーで出来るものではありません。持って生まれた「話上手」というような賜物によるものでしょう。この力は、良くも悪くも、多弁、雄弁に働くと人をある方向性に疑問を待たずに進ませる力として働きます。

歴史の授業で多くの「王様」や「皇帝」などの名を学び彼らが行った政策もまた学びました。彼らに共通しているのは、民のリーダーとして「カリスマ」のような雄弁に語る力を持ち、民を導く力を持っていたことです。これは、政治においても非常に有益になる力です。発言力に説得力を持たせ、さらに実行力も持ち得ているならまさに、付き従いたくなるような感覚を私たちに持たせます。しかし、聖書は、この人間の関係性に決して取りこぼしてはいけない要素を記しています。それは、片方が上で、片方が下というような主従関係は人間同士で構築するのではなく、主人はあくまで「神様」であるということです。そして、その関係性は人間同士なら、主人、奴隷のようなものではなく、お互いが兄弟姉妹のように同じ位置関係にいることが望ましというのです。愛ある主従関係も聖書には書かれています。信仰深い主人に従う存在が奴隷として登場し、あくまできちんとした主従関係を守れと言われます。主人奴隷の関係性、兄弟姉妹のような関係性、この両者が聖書には登場するのです。

今朝は一定の距離を持つ事で、お互いの関係が変わってくるという事を説明しています。かつては・・11節『彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています』有益だからといって、フィレモンにオネシモを送る事は、フィレモンが自発的に持った信仰を「オネシモは使えるから彼に従ってくれ」という強制になることになり、それでは元も子もないというのです。あくまで、信仰の基礎は自然に自発的にというのがパウロの考えです。そこで、距離感というのが大切になってくるのです。この二人の関係はどちらが上で下というような関係性ではなく(主人奴隷)愛する兄弟姉妹という関係性になるはずだとパウロは述べました。ただ近くにいて補佐をするのではなく、遠くにいることでオネシモの重要性を感じ、遠くにいるからこそ、フィレモンにとって必要な人間であるという自覚を芽生えさせ、この感情は、聖書のこの二人から見えるように人間関係の中でもっとも重要である、相手を知り、凸凹であってもなお愛することの必要性、神様からの愛が私たちに、人間はみな兄弟姉妹であるという普遍的な感情を思い起こさせてくださるのです。

 

そして、人間関係による、不協和音が発生しても、パウロは全て18節『・・・損害を与えたり・・負債を負ったりしたら・・それはわたしの借りにしておいてください』言います。フィレモンが負債を負う事になった場合、パウロは快くそれは「パウロ自身」で払いますからと述べます。それほどに、オネシモの存在を兄弟姉妹のような関係として受け入れて欲しいと述べます。このフィレモンの行為がパウロを喜びに至らせると聖書は述べます。ここまでで、オネシモという人物を心から兄弟姉妹のように愛して、それが主によってであるという事を、パウロは心らから信じています。オネシモを信じています・・・・・

 

今朝の一連の流れはパウロを通して、オネシモという、フィレモンに受け入れてほしい人物がパウロの保証があってではありますが、用いられるようになる過程を描いています。私たちは、人生で、誰かの面談や面接を行ったり、受けた事があると思います。そこで、一番何が必要であるのかが、今朝説明されます。それは、人間性を見るということです。必要なら一旦休息をし距離を持ち、その人間の本質を考え合う時間を作るということです。休息を必要とする人は「弱者」のように見えるかもしれませんが、その休息は絶対に必要なものなのです。

 

神様は必ず送り主、受けて両者を祝福してくださり、とりなしてくださいます。

 

本日はショートメッセージです。

                                祈ります・

 

「世の富」テモテの手第一6:1-12(P389)230924 阿久根伝道所牧師竹花牧人

 聖書の時代、今朝の新約聖書の時代において、奴隷と主人の関係性は虐げる物と虐げられる物という関係性ではありませんでした。そもそも、奴隷という存在が聖書には当たり前に登場し、彼らは主人に絶対の忠誠を誓い奉仕を行っていました。この奉仕をすることが奴隷にとって喜ばしいことであり、主人を愛していました。その主人が信仰者であれば、なおのこと、熱心に仕えました。信仰者とは裏を返すと、神様に愛されている存在です。つまり、神様に愛されている人に仕えるという事が大変喜ばしい事でした。但し、奴隷自身が信仰者である場合、主人との関係性に侮りが入る事がないようにと釘が刺さります。信仰者同士でも、主人、奴隷という関係は守られなければならないと言うのです。これは、我々の頭である「神様」との関係性と似ています。罪の奴隷からその罪を赦して下さる存在(イエス様)に対して、同じ人間同士だからとイエス様を蔑ろにするようなことがあってはいけません。人に優劣があってはならないという教えをイエス様はされますが、神様が私たちの主であるという事を何度もお話されます。人同士の主従関係はそこに信仰が浸透している時、主人と奴隷には愛ある主従関係が生まれるのです。

 

 私たちは、何と主従関係を結んでいますか。この世の中で従うべき存在は何者でしょう。信仰者であれば「神様」です、応えると思います。一つ例をお話します。会社では、役職があると思います。係長、課長、部長、常務、専務、副社長、社長、会長、といった具合でしょうか。このヒエラルキーの中、下につくものはこの役職の人のやり方や発言に聞き仕事をおこなっているでしょう。では、この上司があまりにパワハラ的で、傲慢で、下の人達の事を一切考えない人でしたらどのような事が起きるのか、現代社会では、心の病気になったり、または、うっぷんをはらすため、殴り飛ばす、ひと昔前では良くあったと思います。教育をしようとして上司は部下を思ってと仰るかもしれません。しかし、人間は一人一人全く違うのです。平等に教えているから大丈夫なのではなく、その一人にあった公平の指導をしなければ、どんなに優秀な人材も腐っていってしまいます。しかし、「神様」との主従関係ではこのような人が腐るというような現象は決しておこりません。奴隷ですら、信仰者である主人にさらに熱心に従えと言われています。何故か?それは、「神様」は付き従う我々がどんな身分であろうと、どんな人種であろうと、どんな病を持っていようと、関係なしにそれらの人を「愛して」くださり、私たちはその愛に感激し、「神様」に自発的に従う気持ちを湧き出させてくださるのです。「神様」に従うことがなんという喜びであるのか。それこそ、人間の主従関係を超えた「神様」との関係です。

 

 しかし、悲しいことに、「信仰歴」を自身のステータスのように考える人がいます。長年信徒をしているから、私は尊敬されるべきだというような・・・そこに利権が絡み、献金を多くしていのだから、発言力を持たせろというような具合です。そのような人がどうなるのか、聖書にはっきりと記されています。9節『金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害な様々な欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます』

 

 「神様」は富を蓄える事を否定しているのではありません。働いて賃金を得る事は当たり前です。しかし、生きる目的が「金」になり、その欲望に支配され、自身の中心にいるのが「神様」でなくなることを戒めているのです。生きる上で、必要なものは、最低限、8節『食べる物と着るものがあればいい・・』と言われます。人間は「神の国」へ皆行きます、そこでは人間が蓄えた財産は何一つもっては行けません。つまり、何も持たない事は決して貧しいことではなく、必要な物は「神様」が用意して下さるということをおっしゃっているのです。

 

 最後に人の価値観から足を洗いなさいと述べます、神様の前で正しいことをひたすらおこいなさいと言われます。11節『・・・正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい』わたしたちは、この「信仰」の戦いに現在進行形で対面しています。結果は必ず「神様」が勝利をもたらして下さいます。その戦いは多く人々が見ており、その信仰は他の人をも巻き込み神様が示した正しい道へ導かれます。 

                  本日はショートメッセージです。 祈ります。

 

「新しい人間」コロサイの信徒への手紙第二3:12-17(P371)230917

阿久根伝道所牧師 竹花牧人

 人間の戦争時の状態と平和の状態、これを今朝は考察していこうと思います。まず、戦争時の人間の精神状態ですが、「極限状態」という言葉がしばしば用いられ、命の重さを痛烈に感じる非常に緊張感のある状態です。人は、生命の倫理観を成長する過程で学び大切に育てられます。その中で、動物や植物、生き物全般に愛でるという愛情を心に育んでいきます。「命」を大切にという言葉、そして命を愛するということを人間の心は持てるように「神様」は創造されました。今朝12節『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから・・・・』13節『・・赦しあいなさい』14節『これらすべてに加えて愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです』キリスト教で言われる隣人愛や、「神様」からの一方的な完全な愛情はわたしたちにどんな人間同士でも赦し合える心を持っていることを語り、実践しなさいと語ります。

 では、人を赦し合える「愛」に全面的に反発してくる人間の「利権」とは一体何でしょう。21世紀は戦争の無い世界をと多くの人たちが祈りました。しかし、蓋をあけると現代社会は戦争を幾たびも繰り返しおこない、多くの人々のかけがえのない「命」が奪われています。戦争は「愛」を完全に否定します。赦し合いなど必要がなく、争いに如何に勝ち、国益や国の存在価値を高めるかが大きな争点なのです。しかし、これはあくまで、戦争を会議室で行っている人々の理屈です。現場での「命」のやり取りに心がねじ曲がるような苦しみの中戦っているのは前線にいる人々です。また、無作為に理不尽に命を奪われてしまった人々もまた「愛」を利権でねじ曲げた会議室の中の人々の犠牲者です。

 目の前で殺し、殺されるという現場にいる人々はまともな精神状態でいられるはずがありません。私の地元でのお話を少し致します。私の生まれた栃木県は所謂ヤクザと言われる人が多い地域でした。高校生のころ、近所の女子高の前で組員が銃で殺害されるという非現実のような事件が起きました。後々話を聞くと、目撃者は心に深い傷を負いメンタルケアを必要する状態になったそうです。PTSDと言われる精神の乱れに苦しんでいるのです。戦争はこの誰かを攻撃するという行為を「大儀」という名目で当事者の心をマインドコントロールするのです。言えば、普通の精神状態では戦争に出ても役に立たないからです。ヤクザのお話に戻しますと、この暴力団員がどのような立場の人かは分かりませんが、強烈なストレスの中、襲撃をすることに人生をかけた「覚悟」を持っていたという事は理解でました。「覚悟」「マインドコントロール」この中に「愛をもって赦す」という神様が訴えている慈悲の心をどうすれば人間は持つ事ができるのでしょう。

 神様によって「新しくされる」とうのは、この人間の争いの心に絡みつく洗脳のような呪縛から解放されるものです。「極限状態」の中でも、銃のトリガーから指を離しまともになる人がいます。だいたいこういった人々はPTSDになります。「自分は人殺し」だという自責の念に悩まされるのです。

 ここまでで、戦争状態の異常な精神状態についてお話をしました。それでは、次は平和な心をもって優しさの中で生きる人々に焦点を当ててみていきたいと思います。この「神様」の「愛」に生きる人は完全な「神様」依存であり、自分よりも他人のことに心を配る人なのです。心や体に傷がある人を見かけたら、自分が如何に重い問題に直面していても、痛みのある人の為に行動します。「イエス様」がそうであったからです。武器を持ち戦わなければならない人の為に、戦争に勝ちますようにとお祈りをするのではなく、一刻もはやく、争いを続ける両者に「命」の重さを再認識し、これを奪い合う事が如何に愚かであるのかに気づくように祈ります。暴力に心が支配されているのなら、非暴力がどれほど「愛」あるものであるのかに気づかせる必要があります。それは、真に「平和」を体現している「イエス様」の言葉と行動によって生きる道標となります。

 

 恐らく今朝の聖書個所は「暴力」の世界から、そうではない「愛」ある世界へと全ての人々は住まいを移動できることを述べています。12節『あなたがたは神に選ばれ・・・』とあるのですから、選びに預かることが人間に生き方の変化をもたすチャンスであり、全ての人が「神様」の選びの前に立っているという事です。

 

 「戦争」と「平和」この相反する状況で人は環境によって残酷な選択しを選ばなければならない時があります。しかし、安心してください、それはあくまで、人間の選択です。神様はその人間の選択のさらに上から全てを赦し新しくして下さる選択をわたしたちに選ばせてくれるのです。安心してください。      本日はショートメッセージです。

                              祈ります。

 

「十字架を背負う」ガラテヤの信徒への手紙6:14-18(P351)230910

                           阿久根伝道所牧師 竹花牧人

 私たちは、一体何者なのでしょう。最近よく考えます。全ての思考、行動、今ある環境全てが「神様」によって与えられていると信じていますが、それでも、私一人のできる事などたかが知れています。小さな一つ一つを丁寧に行い、「神様」が喜ばれるような生き方をすることで、「私は神様の子、イエス様の弟子」というアイデンティティになるのでしょうか?その与えられた場において、「自分は今何をしているのでしょう」と最近自己に問いかける瞬間が多くなっています。私自身が持つ「罪」によるその重すぎる十字架を背負いながらも、その罪を「イエス様」が代わりに背負ってくれている事を思う度感謝しかありません。では、何故、自分の存在を疑うのでしょうか。私は今この場所にいてよいのか、環境の共有が難しく世の中の一般常識があまりに私にとって重荷なっています。「イエス様」に倣って生きるとは、決して常識の理解のような生き方ではなく、むしろ非常識を愛する事だと聖書には記してあります。奇跡的な業を、悪魔の所業のようだと一蹴するのか、日常では理解できなと排斥するのか、「イエス様」は、自分は「何者」であったかを自身が十字架に架かる事でお示しになりました。

 私たちが持つ十字架(罪、重荷)を「イエス様」は代わりに背負ってくれました。これこそ、常識を超えた、非常識の極みです。そうでしょう、自身の十字架を何の見返りもなく、代わりに持ってくれる人などそうそういません。「イエス様」は究極的なお人よしと言われても仕方ないでしょう。では、何故お人よしでいる事に辛さや不満を持たず、生きていけたのでしょう。それは、「イエス様」自身もまた、父なる「神様」に重荷を背負ってもらっていたからです。「イエス様」は「神様」を心から信頼し、自身の存在を完全に肯定してくれていると信仰を持っていたのです。だからこそ、時間や空間は違えど(イエス様とリアルタイムでの接触はないパウロ)、「イエス様」の十字架を誇る事以外に誇るものなどないのです。パウロは今朝このことを力強く述べました。14節『しかし、このわたしには、わたしの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るもの決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです』

 「イエス様」の十字架の言葉・・全ての罪を背負うという言葉は、パウロの言葉を通して世はその意味に触れることになり、世界はたった一人の真実の人を磔にして殺害したという痛みを未来永劫持ち続けることになりました。そして、パウロ自身は真実の人を殺害した世に自らの弱さを見、自身が最期を迎えるその時まで叫び続ける役目をおったのです。

 

 目に見える信仰の形があれば、それはとても便利で信仰の証拠として説得力を持ち、世間に認めさせることが容易になります。聖書の時代、「割礼」という儀式がユダヤ教全般で行われていました。「割礼」を施された者が信仰者でした。異邦人などは「無割礼」で大変差別的な扱いを受けました。その大変重要であった「割礼」が今やあろうが、無かろうが関係ないとガラテヤ書(今朝の聖書個所)は語るのです。15節『割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです』

 新しい創造とは一体何でしょうか?このお話は聖書の別の個所にこうあります。新しく生まれ変わることを、『再び母の胎に入る事などだれもできません』と言葉があります。・・・こういうことを「イエス様」は言ったのではなく、またパウロも述べているのではありません。人が新たにされるという事は、古い自分を捨て去り、神様の前で、この先、この誓の瞬間から生きる中心軸は「神様」への信仰になるということで、身と心を神様に差し出し、人生すべてを「神様」に任せるという人間に変えられる事です。

 この変化に従う人々に『・・・平和と憐みがありますように』と祈りがもたれます。パウロは自身の生き方の中心にいる方が「神様」であることを強く主張します。私は、新しく創造されることが何か知っている・・・そしてそれが「イエスの焼き印を身に受けている」と語りました。そして、皆が正しく、愛を持って生きることを切に願います。

 

 本日はショートメッセージです。

 

「信仰の証し」ヤコブの手紙1:19-27(P422)230820 阿久根伝道所牧師竹花牧人

 

私たちは、どうやって生きてく事が正解なのでしょう。むしろ、正しいとか、正しくないとか、それは、キリスト者、または他の宗教人だけの悩みでしょうか?無神論者は生き方の価値観が信仰者とは全く違うため、生き方に悩む人は少ないように思います。信仰者というより、求道者の方が一番大きな悩みに翻弄されているような気も致します。キリスト教会では、洗礼により私たちは古い自分から新しい自分へと生まれ変わり、神様を信じる生き方を選択したことになります。ならば、キリスト者の生き方の正解は単純で、神様に相反する生き方をしない事が、正しい生き方と言えるでしょう。相反する生き方からそうではない生き方に変えられるとも言えます。しかし、私たちがいかに信心深い生活をしていたとしても、誰が、それを正しい、正しくないと判断するのでしょう。境界線は誰が引き、誰がそれを基準に判断し、「あなたは神様の前正しかった」と評価するのでしょうか。判断基準というのは何時の時代も存在します。そしてこのキリスト者の生き方の正誤を表す物は何か?「律法」です。「イエス様」も律法を守る事を非常に大切にされていました。但し、「律法」は完全無敵な人生の手引書ではありません。その都度、神様の前で更新されていきます。その時代において、私たちはその変化に応じて「律法」言い換えるなら「聖書」を読むことが必要になるのです。

旧約聖書において「神様」は「戦争神」と揶揄されることがあります。それ程に、約束の地への侵入における数多の戦争の肯定が聖書には記されており、この解釈を、戦争は時には必要で約束された物と人が個人的に認識したことに対し効果を発揮します。現代でも、イラク戦争などを聖戦と言いアフガン侵攻を聖書が肯定しているという恐ろしい解釈を国単位で語られている地域があるほどです。

他にも旧約聖書の預言書には、目には目を、歯には歯をという報復を肯定しているような文書もあり、これが今の時代に適応されるべきかは議論をする余地もないほどに、大戦時や武力で人を支配していた前時代的な内容でしょう。私たちは言葉で解決することをこの大きな血を流す行為から学びました。

では「律法」を語り、「戦争神」のような内容が聖書には書かれているという話を聖書の全てだというような解釈をする人に「今」この時代に目をどうやって向けさせたらよいでしょうか?

 

本日の聖書に入りますが、大きな解釈論議が現れてくる個所ですので、注意をしながら読み解いて行きましょう。先ずは、「怒り」という感情が人間保有する汚い物だとばっさりと切り込まれています。20節『人の怒りは神の義を実現しないからです』21節『だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます』「怒り」は罪とも読むことが出来ます。・・・・七つの大罪という言葉を聞いたことはありませんか。「ラース:色欲」「グラトニー:暴食」「エンヴィー:嫉妬」「グリード:強欲」「スロウス:怠惰」「ラース:憤怒」「プライド:傲慢」です。怒りは大罪としてカウントされています、つまり、怒りを持つ事は良くないというのです。そうではなく、私たちは「イエス様」の十字架での「・・・この者たちは自分たちがなにをしているのか知らないのです」という「愛」によって怒りや他の全ての罪から許されたのです。しかし、表現が良くない、「植え付けられた・・・」これでは、洗脳された教えのようにも読めてしまうのです。カルト宗教はこのような表現に目を付け人々を食い物にします。そしてさらに怖い表現が続きます。22節『御言葉を行う人になりなさい』「律法」を守る人は幸いであるというのです。これでは、先に述べた「律法」の落とし穴にはまって全ての行いの善悪が人の手に委ねられ過大解釈へと繋がり、現代にもそれの一部でしょうが、無理やり適応させようとした動きがあります。

 

 「律法」は完全ではない完成するために「イエス様」は来られたこれが最重要な解釈論議の問題です。では、「律法」にない物とは一体何であるのか?それは・・・・・「愛」なんです。七つの大罪だとか、「律法」の穴だとか、それは悔い改めて受ける洗礼(バプテスマ)によって勝利される。「愛」はこの世界の全ての事象に完全に適応する「感情」なのです。植え付けられたと読むと怖いです。但し、私たち人は生まれた時誰もが白紙であり、そこに生きているうちにだんだんと色がついていきます。白紙といいましたが、その紙の元は何か木ですね。そして私たち人もまた、元は生ける神様から誕生した被造物です。木と人も同じ被造物ということで対比させましたが、何が言いたいかというと、私たちは「信仰を植え付けられている」のではなく、初めから神様の存在によって形をなし、その白紙の状態からはちゃめちゃになっても、そこに初めから最後まで白紙でおられた方の生き様により、生き方を変えられまた白紙にさせていただく事ができるということを、思い起こしなさいと伝えているのです。25節にこうあります。『・・・自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です』

 そうです。古き「律法」は破られ、「キリスト・イエス」の語った「愛」というピースによって新しい「律法」を守る事が重要なのだというのです。「律法」はモーセの時代からとか、古代文明の遺産のようなものではなく、新しくされながら、その時代それぞれに「愛」というピースを加えて赦しをもった生ける決まり事なのです。

 

 だから、「戦争神」のような「神様」は滅びから救いへと舵を切り替えたことを誤った解釈論議をする人は知るべきです。そして、正しい生き方が何であるのか、それは人が人を裁き合う世界を人間同士が作るのではなく、その意地汚い世界が人間社会であるという大前提のもと、それでも、神様は人を「滅ぼさず」「救い」をもたらすということを知り、そして、それが「キリスト・イエス」を通して語られた「愛」であることに気づき、たとえどんなに苦しい環境でも、どんなに残酷な世界でも、その世界は人間である以上当たり前なのです。その狂った世界すらも助けようとしている者の声を聞いて生き方を変える、破壊から救いへの手を掴む生き方それが正しく生きるということでしょう。  祈ります。

 

「主の来臨に備える」テサロニケの信徒への手紙第一1:1-10(P374)阿久根伝道所牧師

                                    竹花牧人

 自分自身の等身大の姿を、心から愛することが出来ているでしょうか?神様は、人間を全く違う姿で創造し、一人として同じ人間はいません。ありのままの自分が一体どのような事をさすのか・・・性格、容姿、環境、生まれた時に人間によってその自分という存在を定義するものがこの人間社会にはあるように思います。例えば、裕福と貧困、環境という場を考えるとき、確かに生まれた時に格差の荒波の中で生きることは現代の問題の一つでしょう。その環境において、「私」という自分自身をきちんと直視し、どう生きて行くかを考える事が出来ているでしょうか。ありのままが大嫌いと言い、見た目に拘る感覚や、貧困をひたすら隠し周りの普通に頑張って合わせるとか、嫌われたくないという思いから、言いたいことを言わず、常に「はい」と言い「イエスマン」でいることなど、本当はこの意見とは全く逆の考えを持っているのに・・・・この性格が大嫌いなど・・

 

 今朝は、テサロニケの人々が信仰によってどのように変えられたのか、自分自身という縛りから「何」がその鎖をちぎってくださったのかを伝えています。6節『・・あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしに倣う者、そして主に倣う者となり・・・』あります。酷い苦しみとは何か?それこそ、一人一人が持つ「私」という入れ物の外側を見てくる社会からの圧力に自分なり答えを見つけるという作業です。本来なら、神様よって誕生した命全てが尊い存在ですが、人間はその命を必ずしも愛を持って接することが出来ない存在なのです。小さな時は可愛くて子供っていーなと思っていた大人が、成長する子供を見て段々と疎ましくなっていく・・・子供がいつからか空気のような存在になり、いても居なくても同じような存在へと変わる・・・・・「東ヨコキッズ」という言葉が最近ネットでは騒がれています。地元の家や学校に居場所がなく、未成年の子供たちが中心になって東京のど真ん中にたむろする界隈のことです。彼らは、お金もなく、住所もなく、悪い大人に人生を狂わされてしまう、そんな事件も多々おきています。借金、売春、ホスト狂い、ギャンブル、このような問題を紐といていくと、行き着くのが「ありのままの自分」を愛してもらえていない、また、自分でも受けいれられない、聖書でいう「愛されている」感情を持っていないのです。そこには人間性というものより、お金をくれる人、泊まる場所を提供してくれる人、食事をくれる人の方が大切で、愛を持ってという事が、彼等、彼女らにとっては綺麗ごととして写っていることでしょう。

 それでも、その「酷い苦しみの中」で人間は変えられていくということを伝える必要があるのです。ウザいと思われても、キモイと思われても、それでも、何度も何度も何度も、関わる覚悟を持って接するのです。私は、人生の残りをこの現代の若者たちに、「自分」を傷つけるのではなく、その自身の痛みを一緒に背負ってくれる人がいるのだということを声にあげていく所存です。

何故、彼らのような(彼女達)痛みや苦しみの中にある人間に目がいくのか?それは、私も同じだったからです。話は飛びますが、この阿久根という土地、そして鹿児島という場ではあまりピンとこないかもしれません。こども園や小学校、中学校、を見ても、特に事件や問題が起きているようには私は思いません。それは、田舎という横の関係性が強固な環境が大きく関係しているように思います。都心(東京)等は冷酷と言えるほど、人は他人に興味を持ちません。関係性はお店とお客というようなお金の繋がりがメインです。最近ですが・・・福岡に「警固界隈」という「東横界隈」のような若者達の集団・・痛みを持ち、「自分」を受けれいられない・・という集まりがあると聞きました。彼らにとってスーツを着てぴしっとした大人より、入れ墨や、ピアスや、派手な頭髪や、個性的で到底社会に受けいれられないような服装の人の方が、親近感が沸き話をする気になってくれます。にわかな人は直ぐにばれて排除されますが、私は、場所は違いましたが、その界隈と同じようなコミュニティに属していました。

 だからどうしても、聖書の言葉が私を救ってくれたとことを伝える義務のような感情になるのです。また、自分の話か・・・そう思われるかもしれません。しかし、この問題意識と自分の存在意義は暖かい暖炉が当たり前にある環境にあるのではなく、氷点下で苦しむ人と共にその寒さを過ごす事にあると思っています。

 

 お話を聖書に移します。私たちは変えられたとあります。7節『・・・すべての信者の模範となるに至ったのです』苦しみの中変えられ、「自分自身」とはという問いに答えがでたのでしょう。軽率に自分を傷つける行為から全ての痛みを背負ってくれる存在に出会い、実際に「救われた」と心の底から感じたのでしょう。この「神様」との出会いがやがて、やってくる主の来臨の時に救われる事を確信させてくれます。わたしは、一人でも、抱えられることが出来る微力な力の中、この「神様」との出会いを伝えて行きます。口だけと言われても良いです。泥臭い中、社会に殺されかけた私は実際に今「生かされています」そして、その生かされた意味は、様々な痛みや苦しみを取り去って下さる方が本当に「存在」するという事を命をかけて伝える事です。

 

 こんなお話を聞いた事があります。病気で余命を宣告されたにもかかわらず、亡くなる瞬間に笑顔で「神様の所に行ってくる・・・」と言い息を引き取ったというお話です。私は、37歳ですが、あまり長生きをしようとは自分では考えていません。(神様の采配でどうにでも変わるのですが)自分が、その年齢時にやれることをやる、それが、私に与えれた使命と認識しています。笑って、「神様の所行くよ」同じ気持ちです。

 数か月前、原因不明の咳にみわまれ、病院に行ったのですが、そこでレントゲンを撮りお医者さんから怖い言葉を貰いました。肺に影があるねと。そこでとんとん拍子に広域医療センターに紹介状書いてもらい精密検査をしました。CTを受け、診断をされました。煙草を吸うので、慢性的気管支炎ですねという診断です。私は、大きな病気かな?おもっていたのですが、不思議と恐怖は一ミリも感じませんでした。命にしがみ付くのでは、命はいつまでも続く、それが、笑顔で「天国」に行くという事だと心から信じているからです。

 

 人間は何時かは必ず死にます、それが早かったり、遅かったり、しかし、その瞬間に「私は」神様に愛されていたなと自分を好きになる事が出来るようになっていたら・・それは最高ではありませんか。その瞬間を全ての人が感じれるように、「神様」を頭とした、道標の先頭に恐怖を克服させて、立たして下さっていることを心から感謝します。   祈ります。

 

「苦難の共同体」ぺトロの手紙第一3:13‐22 230730(P432)阿久根伝道所牧師

                                    竹花牧人

 わたしたちは二元論という立場で物事を推し量る傾向があります。善と悪、光と闇、男と女、この世の中であらゆる存在を二つに分けて認識しています。このような認識をとる人には実は同じような傾向があります。それは、あえて分けますが、保守派とリベラル派と表現される保守派の層に多く見て取れます。伝統主義や原理主義に近い思想を持っている人の層にも見受けられます。彼らは、自身の信じる道を古臭いや時代遅れだというような感覚には至りません。思想は代々受け継がれているということこそ、その思想がどの時代にも必要であるという意識を持っているのです。では、私たちは、生きる道標を探すとき、世界に数多に存在する主義、主張、宗教、そして「神様」をどうやって選ぶ必要があるのでしょう。「キリスト・イエス」の生き様に感激し、彼の十字架の死により、私たちは救われているという喜びを選択すること、私たちキリスト者と言われる者達はこの救いがあるという事を知っている事が前提で、多くの無神論者や異教徒にメッセージを伝えようとします。しかし、よく考えると、聖書って何ですか?やキリストの死や復活が「私たち」に何か関係しているのですか、というような反応が普通です。人間みな同じ思想や信仰を持つ事が無い事は、人類の2000年という長い歴史から見ても明らかです。逆に、信仰を悪用し、宗教戦争とうを教会は行いました。人間が宗教を管理しているのではありません。偉いお坊さんが語るから効き目があるとか、高名な牧師が祈るから価値があるとか、そんなことでは決してありません。全ての人々は皆、自発的に自身の生き方に迷いが生じた時に人間世界の縮図のような聖書をある意味人生のマニュアルのように読むのです。「キリスト・イエス」が苦しまれたその姿は、いつの時代の人間であっても人間が最も苦しむ痛みです。その、痛みに遭遇した時に私たちがどうやって立ち直っていくかを、聖書は語ります。しかし、私の意見もまた、「私の聖書の読み方」であり、聖書を善書と悪書と無意識に分けて聖書を人生において良い物だと決めつけているのでしょう。

 聖書では私は救われないという方のお話を聞いたことがあります。旧約39文書、新約27文書、何度も何度も通読し下手な信徒や牧師よりも聖書への理解は深いといえるかもしれません。その人は私に「聖書は綺麗ごとを述べ、苦しみの問題に物理的な改善をもたらすのではない」と仰りました。この人は、牧師を攻撃し、教会を混乱させ、それに乗じて教会の懐事情へアクセスし、お金を要求しました。「私はこんなに苦しんでいる、聖書も読んでいるのに、愛によってこの痛みを取るのが牧師の仕事だろ、だったら金銭をくれ」というのです。頭良いですよね。キリスト教の仕組みを頭で理解し、可哀そうな「私」を救う手段は「神様」からの愛あるお金だというのです。これを行えば、永遠にお金に困りません。教会批判を牧師が受け入れるという事が、恐らくありないからです。びびって、教会として手を差し伸べなければ「教会」ではなくなるという恐怖がキリスト者に発生してしまうからです。

 しかし、本当に大切なものとは何かを問われていとも言えます。教会とは形でしょうか?守るために教会の維持に切迫することが本当の姿でしょうか。形が無くなり潰れても消えないものが信仰であり、人々の思想であります。何もない所から始まり、それが原初の教会の形です。時代やその時の権力者達によって教会とは、荘厳で立派で如何にも神秘的であるようなイメージが先行するようになっています。「イエス様」は家も持たず、お金も持たず、放浪しその場で「神様」によって所々で用いられ生かされていました。

 

さて、本日の聖書個所ですが、15節『心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい』16節『それも穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの良い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。』

つまり、如何にキリスト教を研究し、理解しているような人々や「超使徒」のような偽善者が語ろうが、主体であるのは「私」であります。キリストに救われるという事は、一人として同じ形はありません。何が、心の芯を固くしてくださるのか?人間らしさを私たちに与え、今を生きることを誰が容認してくださっているのか。聖書はまやかしであるというならば、それもまた「真実」です。その人が人生で「生きた神様」に出会うことを祈るばかりです。つまり、人間の主義や思想が必ずしも「信仰」に結びつくわけではなく、それだからこそ、「キリスト教」があるのです。世界中の人々が全て「キリスト者」になったらどうでしょう?もう伝えるべき人がいません。そして世界は安息を持ち、優しさと神様の愛で心身豊かとなるのでしょうか。・・・・・・・そんなことはありえないからこそ、「人間」が「人間」であるのです。罪まみれそれが人間であり、世界に人がいる以上そこには必ず、人生の指標となるべき存在が必要になります。いや、求めます。「私はどうやって生きたらよいでしょうか?」人間が二元論を説くことが多々あるという事を前半で述べましたが、「神様」がいるという事を証明できますか?では、「神様」がいないという事を証明できますか?両者は前者を「信じる者」とすると後者は「信じない者」という図式になります。つまり、「存在」の証明ほど無価値なものはありません。「存在」を証明するということは「科学」の領分です。それでも、この「信仰」が決して消えない理由は、今朝の18節『・・・・正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです』そうです、「信じられない」ものたちのためにこの「キリスト」は存在しているのです。世界は66億人の人口がいますが、信じていない人間は数多です。その様な人々のために「キリスト教」は存在しています。21節に『この水で前もって表された洗礼(バプテスマ)は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼(バプテスマ)は肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。』

自らの過ちから救いへと導かれるプロセスは聖書から理解できたと思いますが、今朝はあらたな気づきがあったのではないでしょうか?わたしにはありました。洗礼が悔い改めを促した結果であり、自分自身が新しくされ、「キリスト者」として生きる「罪」という鎖から離され「自由」を持つ事だと認識していましたが、今朝は『肉の汚れ(罪)を取り除くことではなく、神に正しい良心を願い求めることです』というのです。神様にただひたすらに、正しいことはなんですか?問うことなのです。「罪」が許されるということではなく、「人間」」が持つ「罪責感」の中で、正しい答え、正しくない答えというような目に見えない、人間では知りえない答えを求める事だというのです。そして、与えられる答えは「人間」の肉体が終わるその時に見えてくるのでしょう。 祈ります。

 

「女性の働き」フィリピの信徒への手紙4:1-3(P365)230723阿久根伝道所牧師

                                 竹花牧人

 3節『・・・真実の協力者よ二人の婦人を支えてあげてください。・・・福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです』3節の文書ですが、エボディア、シンティケという名の二人の婦人のために支えてほしいと固有名詞はありませんが、「真実の協力者」にお願いをしています。この二人の婦人には、1節の『だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかり立ちなさい』という言葉をかけられています。この二人は主の福音のために大変活躍された・・・それは、この1節の言葉から分かる通り、私たちに婦人たちのような信仰を持ちなさいと語っているのです。しっかり立ちなさい、この言葉は、私たちが神様の前で嘘、偽り、暴言、罪とされる事を正面から受けて止め戦うことを意味し、二人の婦人が「勧め」られているのは、この二人は戦ったからです。

 

 この二人が用いられる理由ははっきりしましたね。男性が用いられるとか、女性だとかという話ではありません。ただ一つ神様の前で正直に神様の語る福音に応える覚悟があるかどうかです。口先で人を陥れたり、自分こそは主の前で正しいと誤認するもの・・愚かです。私とか自分とか、そんなものがどれほどの価値があるのでしょう?私たちは「自分」に仕えているのではありません。常に、神様が私たちを動かしあるべき道を示して下さっていることを再認識する必要があります。

 

 聖書を読んでいると、だいたい1週間の間に起きた出来事を思い起こします。今週は非常に呆れた1週間でした。選挙とかを見ていると良く裏でわいろを渡しながら、票集めをする政治家がいます。だいたいばれて公職選挙法違反でお縄に付いていますが、こんな報道を見る度に、私は彼らが「自分」こそ政治家になり国を変えるべき人間であるという、完全に「自分」「自分」を中心軸に立てた笑える人間中心論者として写ります。選挙に勝たなければ意味がない、では神様中心なら選挙にかてるのか?そんな言葉が聞こえてきそうですが、では、国という存在で完璧といえる物がこの世界にあるでしょうか。・・・ありえません。村八分という言葉は?大体国の世論を見てみると自国に満足していると答える国民は大変すくないです。つまり、一人、一人が、個人で政治家を選んでいるように見えて、これは集団の意志なのです。集団には必ずほころびがある。どんなに人格者でも100%信頼される存在など、人間はなりえないのです。結局、いいと思ったのに予想、期待と違った。だから今度はもっときちんとした人を選ぼう、そしてまた、これも違った・・当たり前です。いい加減気づいてください、人間が選び期待する物には完全なものなどないんです。それから、勝手に人を支えている気になっている人要注意です。私はあなたを心から心配しているのです。嘘ですね・・悲しいですが、人間は自己都合で脳が作用するように作られています。自分の利益や、自分の立場を優位に立とうとするのが人間です。心配もまた相手に気に入られるための手法でしかありません。 

 

 イエス様は相手を選んで自己の都合や利益で人を選んでいたでしょうか?能力で選んでいましたか。どんなに汚くても真っ黒でもそんなものは関係なしにお話をし共に食卓を囲んでいたのではありませんか。そこに人間が不完全で到達することが出来ない極限の「愛」をもっていたのです。これを書いている私自身、ならばどんなことにも「愛」をもって赦し合うことが必要であることが祈りながら理性と感情と祈りの言葉がずっとぐるぐる回っています。このような事に悩むのも人間である証拠ですが・・・・怒りという部分だけは例外にも「イエス様」にもあったのです。「教会を強盗の巣のようにするとは何事だ」これこそ、「イエス様」もまた人間である証拠です。

 

 怒りがあることが事実ですが・・・・・今朝の聖書個所には神様に立てられ勧められた二人の婦人がおりますね。福音のために戦った、恐らく「イエス様」によってそれはつまり「愛される」ことと「愛する」ことが全ての憎しみ怒りを消し飛ばしてくださることを実践でき、人間の持つ苦しみ真に正面から戦ったからです。誰もが不完全でありますが、仮に争いが生じるなら正々堂々やるべきです。これは持論ですが、争いの終着点が「愛」であるなら、どんな方法でも一度は本気で戦争でもすべきですかね。それは「愛」が終わらしてくださる。それを信じながら、福音の戦いに挑む所存です。   

  今朝はショートメッセージです。                 祈ります。

 

「生命の回復」使徒言行録20:7-12(P253)230709 阿久根伝道所牧師 竹花牧人

 人間が生き返るということ、それは、聖書の中での解釈と現代の医療的なニュアンスでは大きく乖離しています。この違いが今朝の大きなテーマです。今朝の現場検証をしてみましょう。聖書には細かく記してあります。パウロの長話に飽き、眠りこけて三階から転落し死んでしまった青年のお話です。聖書はこう話します9節『エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた』・・・・・さて、パウロの長話はどういうシチュエーションであったのかそれが重要です。この状況はある光景と非常に似ています。お気づきなりませんか?そうです、主の最後の晩餐のシチュエーションです。主は弟子たちと最後の食事をとる時、「十字架に架けられ死ぬ」と語られました。立ち話でもなく密会でもない、弟子たちとの公の食事会の時そう語られました。その後「イエス様」はユダに裏切られ十字架に架けられ亡くなります。亡くなるという事がどういう状況を指し示すのか?生命活動が停止した状態であるのか、では脳死は?心臓が止まり何分で死亡とされるのか、エウティコの転落事故後の発言は・・「かれは死んでいた」です。そして「イエス様」もまた「息を引き取られた」と聖書は記します。不思議ですね、両者は完全に人間の医療的な範疇では「死」んでいたのです。

 非常に不自然な状況です・・・・「死んでいた」とあるのに、パウロは「騒ぐな、まだ生きている」と述べるのです。死んでいるならこのようなパウロの言葉はどのような意味があるのでしょう。そして確かにエウティコは死んでいたと確信させられる描写があります。12節『人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰めれた』とあるのです。生き返った・・・つまり、パウロ以外は死んでいると確認をしていた、パウロだけが「生きている」と述べている。生きているのに「生き返った」という表現は大きな矛盾を示します。確定している「死」を覆す発言をし、その言葉通りに生き返った、これは、死者が単に肉体の復活を証明しているのではなく、神様の業が、働くという事が起こりえることを、「イエス様」の死と復活により確かなものとしてパウロの信仰に大きな芯としてあったからです。

 そしてその奇跡が起こった場が食事の席であったということも重要な事です。7節『週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、・・・』そして転落事故・・・再び11節『そして、また上に行って、パンを裂いて食べ夜明けまで長い間話し続けてから出発した』人が一人亡くなったのに、よく悠長に食事の席に戻れるなというのが率直な感想ですが、これが、聖書的に非常に重要な部分なのです。パンを裂き食事をするというのは、「神様」に感謝を捧げて生かされていることを認識する場であります。食物は人間の舌を通して味わい、食道を通り内臓に向かっていく、その感覚は生きていると実感できる人間の感覚です。つまり、食事の席は生きているという事に感謝し、そこには「死」という概念はなく、ただひたすらに生きているという事を感じる場なのです。「イエス様」も最後の晩餐にて亡くなる前に、「人間」の生を肉体全てで体験し、肉体が持つ限界まで、その生に感謝しています。

 このお話のテーマ、人間の生死を科学的に解明しようとするものではありません。パウロが「生きている」と「死者」に向かって叫んだのは、生を実感する「食事の席」で人間的な「死」が起こりえたとしても、「イエス様」がお示しになられた、「蘇り」がこの場で働くことを信じ、周りの誰もが、死んでいると認識したとしても、医療的な「死」という概念がこの場にあって打ち勝つことがないことを信じていたのです。「死して復活する」という「イエス様」の言葉を心に持ち、その信仰から「死んではいない」という発言がされたのです。

 ここでもう一つ大切な事があります。肉体的な復活と魂の「救済」は違うという事です。肉体をもって神様の大いなる配慮によって天に昇られた方は「イエス様」が有名です。そして、その魂の救いは我々残された人にも等しく訪れると約束されています。これは、「死」を超えて「神様」が人間の悔い改めによって肉体の枷から自由にしてくださることを意味しています。肉体がなくとも魂が「天の国」で用いられる。・・・・聖書では新しくされるとも記されているので、肉体もまた新しくされるとも読めます。つまり、「死」というものは、決してネガティブな現象ではなく、人間に必然的、偶然的に訪れたとしても、・・・・「はい、死にました、さようなら・・」という事にはならないことを強く伝えているのです

 

 「死」を弔うということで、我々はお葬式をします。だいたいの文化圏で形は違えど行われています。私は仏式のお葬式に何度か参列したことがあるのですが、使徒信条にある「我は死にて葬られ、黄泉にくだり、三日目に死人のうちより甦り・・」この言葉がお葬式に参列する時心の中で繰り返し発生します

 農伝時代に、わたしは日本三大寄せ場と言われる横浜寿町という町で社会実習にて一か月住んだことがあります。そこは、かつては多くの日雇い労働者で活気ある町でしたが、今は仕事が急激にへり、住んでいるのも老人の方々がほとんどです。特に目立つのはホームレスの方々が多いのと、簡易宿泊所(どや)と言われる場所で生活している人が多いことです。私も町の人々と仲良くなり、一緒にお酒を飲んだり、夏祭りを楽しんだり、この苦しい環境を笑って生きる人間の逞しさを感じました。しかし、ある現実を見る事になりました。この寄せ場に流れてくる人々のほとんどが、天涯孤独という人達です。その為町の人々は皆仲間であるという感覚です。その仲間が一人亡くなり、その葬儀に参加した時のお話です。仏式でした。そして、焼かれた遺骨は誰かが受け取るのではなく、町にある仲間達が眠る共同の簡素なお墓へと入りました。

 わたしたちは、亡くなったら散骨してほしいや、先祖のお墓に入れて欲しいなどと当たり前のように死後の要求をすることがあります。しかし、それは決して当たり前の事ではありません。看取ってくれる病院もなく、路上で亡くなる人もいる、葬儀には、本名すらしらない、ただ同じ町で馬鹿をやって笑いあった仲間達が参列します。しかし、その町には、確かに奇妙な力強さがあるのです。苦しい生活でも、今生きていられる事に感謝をする。手を差し出してくださる方々を心から信頼し、昔話を少しずつ話してくれる。人間性というのは、共に生き、共に笑い、共になくこと、聖書にも、「喜ぶものと喜び、泣くものと共に泣きなさい」という言葉がありますが、人が心に温かさを持って生きる事は、「自分さしさ」を許容してくれる存在に出会うことなのです。

 

 お話が逸れましたが、命とは「強いです」しかし、ふとしたことで消えるのも事実です。ただし、その「死」が神様のご計画であるのか、それを、残された者は強く考えるでしょう、今朝の個所は「生き返った青年に対して、彼は大いに慰められた」あるのです。まだ「死」ぬ時ではなかったのです。今朝のタイトルは「生命の回復」ですが、これは安に生き返った奇跡を喜ぶのではなく、「生命」とは、神様の御心に全て任されているということをお話しているのです。自分がどう死にたいのではなく、「今」生かされているわたしたちはどう生きるのかを考える必要があります。          祈ります。

 

「すべての人に対する教会の働き」使徒言行録11:4-18(P235) 230702 

阿久根伝道所牧師

                                    竹花牧人

 人が持つ人生観とは。生き方や死に方など若いうちから心の芯の部分にしっかりとしたものが在る人がいます。自分の生き方は自分で全責任をとるということ、他人に迷惑をかけずそのうえで自由を謳歌する生き方。こういう人は非常にかっこよく見え、羨ましいと羨望の眼差しをもつことがあります。

 私は、ピカレスクロマンのように、アウトサイダーとしてアウトローな生き方を今よりずっと若い頃選択し、その当時は一生夜の人間として生きて行くのだろうと漠然でしたが、覚悟を持っていました。若干の希望的観測がありましたが、身内の仲間たちとの夜の生活は楽しかったです。具体的に言うと、V系のバンドマンとしてロックに憧れ、いつ死んでもいいと思いながら身体や心をぼろぼろにして生きていました。私の周りはホストやキャバクラ嬢、貢女性達や、それこそ紐のような男達、最低の人間が最低の・・・ぎりぎり食べていけるような仕事をして音楽をしているという自己満足を満喫していました。精神疾患が一番酷かったのは、この時期です。「ルッキズム」という言葉があるのですが、見た目を一番にし人間の内的要因を考えない世界でした。所謂イケメンという枠組みにはいるように皆必死でした。如何にモテる様になるか、付き合った女性の数がステータスという、今振り返ると本当に気持ちの悪い世界です。つまり、目的がすり替わってしまう芯の無い人間が多く生きているのです。「ルッキズム」でも、目的は自分たちの音楽性を世界に向けて発信することです、それが中途半端に売れてしまうと、自分たちはいかしているカッコよい集団であると勘違いを起こしそれが、立ち直りが不可能な位に大きな傷を作るのです。やってやろうぜという熱い心は、いつしか身内ノリで満足するようなちっぽけな集団に変わり、そこから一般社会に復帰できる人間はほぼ皆無です。お金がなく借金や、薬物に手を出す輩もいて本当に人生それでよかったのか?本当にやりたかったことは一体なんであったのか?悲しい気持ちになりますが、では何故、私はその世界から足を洗えたのか。

 

 今朝の聖書個所を読んでいると「自分」のことを言われている気がしてなりません。今朝の説教タイトル「すべての人に対する教会の働き」ですが、世の中の暗部にいた自分が「教会」との出会いにより、また自分の牧師一族というルーツも重なり、人間は変わることが出来るという事を自分自身で証明することとなりました。

 

 今朝の登場人物にぺトロという人物がいます。そうです、初代教皇のぺトロです。イエス様の弟子の中でも一番に名前が挙がるのではないでしょうか。彼は、当時交りえない割礼と無割礼という間に神様の「光」を差し込む存在の一人になるのです。当時はまだ、「キリスト教」という言葉はありません。言わば「ユダヤ教イエス派」でしょう。全ての人が等しく祝福されるという言葉がまだ宗教上にも疑問が残っていた時期です。ユダヤ教が無割礼を決して認めない反面、我々の信じる「神様」は衝撃な行動をぺトロ対して行います。ユダヤ教的には汚れているものとされる生き物を屠れというのです。つまり食べなさいと命じるのです。勿論ペテロは汚れているものを食べることは出来ないと神様からの幻に異を唱えます。しかし・・・・・・「神様」は8節『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と声が聞こえるというのです。何が言いたいかというと、人間がどんなに汚く、怖い物と認識したとしても、それが人間目線でなく、「神様」目線でどうであるのかという事です。分かりやすく例えるなら、人間が出した吐しゃ物を神様がそれを、清いものだからすくい上げて飲めと言われれば、それは清い物になるのです。ただし、「神様」は人間の自尊心が覆るような恐ろしい業を強制してくるわけではありません。必ず、人間が良い方向に変化出来るような「真実」へと導いてくださります。やり方が非常にまどろっこしくてわけがわからない事態になることがわたしたちにはありますが、その事態こそ「祈る」瞬間なのです。

 

 本日のその瞬間とは・・三どの幻と関連する三人の人。彼らが、ペテロに対して「神様」の聖霊による洗礼が無割礼者にも与えられることに気づかすのです。幻は「神様」の意志を、三人の人は無割礼者が徴の有り無し関係なしに平等に招くことを赦す「神様」の心を表しています。

 そして、その洗礼による変化は決して不自然な事ではありません。17節『こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか』ここで、人の救いは無割礼であるということから離れ、「神様」は一方的に救いの道を指し示すことになりました。

 

 こうして、「神様」からの救いの業は全ての人に対して広がって行きます。初めは初代教会を成立させた弟子達にのみ、「聖霊」が降ったというような描写が聖書にはありますが、今朝は本来ありえない層に「聖霊」が降るのです。教会がこの世界全ての人に「神様」からの救いの業があるのだと力強く発信する場となります。18節『この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した』

 

 さて、一番初めのお話に戻ります。なぜ、日本の中ですが暗部にいた私が、その世界から脱出できたのか?それは、ありえない事が起こったからです。いや、今無事に生きているというのが奇跡です。私は明確な「神様」の業が私に起こったというより、過去を振り返っていくたびに大きな人生の選択肢の中、今に繋がる選択を取りこぼしていないというのが、私の今の召命です。汚れているものは汚れていると頑なに認めないという選択肢も私にはありました。それこそ「ルッキズム」に惑わされ今でも内的要因というものに気づく事が出来ない状態が続いていたような結果もあったでしょう。しかし、そうはならなかったのです。不思議です。・・・・きっと「神様」の業というのは人間目線の心の芯を、「神様」目線の懐の大きい人間性へと変えて下さることなのでしょう。そして、その変化は、全ての人間に賜物として与えられており、誰一人同じものはなく、一人一人違う「変化」を与えられます。

 

 「すべての人に対する教会の働き」・・・・・まさに、「神様」の業が全ての人に平等に降り注いでいることを表しています。               祈ります。

 

「個人に対する教会の働き」230625使徒言行録826-38(P228)阿久根伝道所牧師

                                    竹花牧人

 戦争や戦闘、抗争や虐殺、紛争や内戦、テロやゲリラ、先日ウクライナの反転攻勢のニュースを見て、俗に言う争いという言葉の意味を調べてみました。戦という言葉が使われる単語は沢山ありました。その中で、今回のロシアのウクライナ進行は侵略戦争と言えるでしょう。戦争は近代化し、物資やマンパワーによる総力戦というのはほぼ無くなり、ボタン一つで戦況を大きく変えるほどのミサイルや戦闘機が猛威を奮っています。

 イラク戦争の時を思い出してみてください。イラクにはおよそ80万人ほどの軍隊がおり、その屈強さを日本でも連日報道されていました。しかし、戦争中、その軍隊の話題は消えました。何故なら、アメリカが近代兵器の投入により、マンパワー中心の白兵戦ではなく、ボタン一つのミサイル等の空爆でイラクの軍隊を壊滅させたのです。人間を一瞬で殺せる道具を人間は造りそれをより精度の高いものへと金額を気にせず強化している。戦争が人を殺す行為であることを、殺したという感触をえないミサイルなどで、戦争をするもの達から殺人という行いが国家の大義という名目で完全に感覚の消失へと向かっているように思されている。大変恐ろしい時代です。

 しかし、如何に人間に国家の大義を植え付けても、人には必ず良心が発生します。戦争は戦勝国でも敗戦国でも、参加した国の人々、また現場の国民達に大きな傷を与えます。アメリカの軍人が戦後帰国した時PTSD(心的外傷後ストレス障害)が多発したそうです。如何に軍隊で心を矯正されても、心にある同じ人間を殺害しまた殺害されるという現場にいたものは、心を病んでしまいます。正しい戦争というものは存在しません。

 

 お話しを変えます。

 教誨師という存在を知っていますか?罪を犯して刑務所に入り、その中でキリスト教の教えに触れ魂が救われ、自分の存在意義を肯定してくれる存在に出会う事で、過ちと向きあい変えられるように導く存在です。例え「死刑」の判決であり、執行前であっても、自分自身が行った「罪」を認めその「罪」から「死刑」になるというのではなく、何の「罪」もない「キリスト・イエス」が殺されそして「復活」されたように、「罪」から解放され心は「天の国」へと向かう事ができるという究極的な心の救いを得るのです。

 

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)に襲われる軍人達、心に大きな良心の呵責に責められている刑務所にいる受刑者。共に、自身の「死」他人の「死」に深く、深く、関わったことにより起こっている苦しみです。ここで大きな役割を担っているのが、「教会」なのです。今では「メンタルクリニック」や「精神病棟」などかなり心の病についてオープンになってきていますが、病院の前に「教会」にきて祈るという場は、全ての人間が自身の過ちに対して顧みる場所として今でも最重要な心の拠り所であるのは変わりません。

 

 教会が人々の迷いを導く場所として役割を持つという事・・・「死」に近い経験をして自らが押しつぶされそうな人、その痛みに「神様」の「愛」は必ず届きます。今朝の聖書箇所は、一人、一人が思い悩む時に開く聖書が私たちに何を語っているのかを知り得たいとき、教会がそれを「神様」を通して語り、苦しい事実から「救い」の真実へと向かわせるのです。今朝の登場人物であるエチオピアの宦官はイザヤ書を朗読しながら、「説き明かしが必要です」と述べます。そしてそのエチオピアの宦官の下に向かわせたのは「神様」です。たった一人のためにフィリポに「聖霊」が降りたのです。神様の「救い」とはこのように一人一人に様々な形で現れます。宦官はこうも言います。朗読していた箇所は32節『彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している羊のように、口を開かない。』33節『卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命はとり去られるからだ』34節『・・・・どうぞ教えてください・・』『・・自分についてですか?ほかの人についてですが?』その答えは「キリスト・イエス」の福音の栄光によって解決しているフィリポは語りました。「キリスト・イエス」の福音とは・・人間はどのように善人でいようとも、「罪」の鎖に縛られているとても悲しい存在です。その罪はエスカレートしていき、人を殺し、または自分が殺されるという極限状態までもたらします。しかし、私たちの前に「キリスト・イエス」が現われてくださったのです。そして、誰もが、この羊の屠り場に立たされているという事に気づかされます。私たちはただ、「罪」のため、理不尽に裁きを受けることもなく、ただ、無常にも罪の苦しみによって命を奪われる・・・奪われていたと信じこまされていました。しかし、そうではなく、「キリスト・イエス」が私たちに現われて下さったのはその「罪」により口も体も動かなくなった状態でも、そばにいて、私たちから人間には耐え難い心の痛み、体の痛みを共に背負って下さるということなのです。

 

 悔い改めて洗礼(バプテスマ)を受けること、教会では聖礼典(サクラメント)といいます。プロテスタントではこれに加え聖餐式の二つがあります。その式には様々な形があり、バプテスト派の伝統では浸礼といい全身を水に浸し洗礼を授ける方法があります。滴礼という方法が私たちには身近でしょう。今朝の聖書箇所は恐らく浸礼です。全身を水に浸し洗礼を受ける。フィリポは「聖霊」よって力を得ていた・・・さらに、一人の求道者を非常に大切される「神様」の計らいに真摯に聞き、行動に移した。私たちは、教会という祈りの場がこのエチオピアの宦官のように聖書に悩み、「説き明かし」を必要としている者たちの場所であることを再認識できました。教会は建物や建てたもの達、または既存の人々だけのものではありません。変化とは一瞬の間に起こっています。聖霊は私たちを、フィリポと同じように、人々の元に走れるように働きかけています。

 

 以前このような言葉を聞いたことがあります。教会の案内をあまり多く刷ると教会に大きさ(キャパシティー)超えて入らなくなるので、「ほどほど」がよい・・・・神様の言葉にほどほどなどという言葉はありません。この世界の全ての人々に向けられて語られている福音です。先にも記しましたが、入りきらない人こそ大歓迎ではありませんか。教会が信仰によって集まった場所の証であり、その多くの人々に神様は必ず応えて下さいます。

 

                                 祈りましょう。                

「キリストを信任する教会」使徒言行録4:5-12(P219)230618 阿久根伝道所牧師

                                    竹花牧人

信任とは言葉通り、信じて任せることです。私たちは、「信任」とまでとは言わなくても、仕事やいろいろな場面で人を信じて任せるということをしています。但し、一人で全てを行い責任も自分自身で負うことを覚悟を持っている人は、一人の方が効率よく作業が進むでしょう。人間は不思議な生き物でこういう言葉があります。「人は一人では生きて行けない」聖書にも、『人が一人でいることはよくない』とあります。創世記ですね。それでは、人間が一人でいるという状態と一人ではない状態とはいったいどのような状態を指すのでしょう。

まず考えることは、孤独という状態です。親や兄弟、友人もいない、世界で自身を認めてくれる存在がいないと感じる環境にある事です。世界に私を必要としている場所はない、誰も私を見てくれない、声をあげても聞いてくれる仲間もいない。昨今の孤独死という問題はこの一人ぼっちという環境が大きな原因となっています。これは、社会から切り離された状態であり、社会構造に自分の居場所がないと感じる寂しさからくるものです。社会から切り離されるというのは、言葉を悪くすると、社会から「あなたはもういりません」と言われ、捨てられることではないでしょうか?会社のリストラ、派遣切りやそれに伴うホームレス化など、どのコミュニティーにも属せない捨てられた状態です。世の中にクビを切られ、家庭は崩壊し、家族が離散、悲しいことですが、現実問題です。

さらに孤独という状態は別の視点からも考察することが出来ます。コミュニティーから外れるという事だけが孤独ではありません。例えば、優秀なスポーツ選手・・彼らの中には大きなフラストレーションが溜まる事があるのです。特に団体競技の場合、抜きんでたスキルを持ったスタープレイヤーは自身のパフォーマンスが他のプレイヤーと釣り合わないという現象に遭遇することがあります。具体的に述べると、バスケットボールの神様とまで言われる、マイケル・ジョーダン選手、彼は天才であったため、彼についていける選手に中々出会う事ができず、NBAに入った当初は結果を残す事が出来ませんでした。出来すぎると周りがついていけず鬼才・天才は一人ぼっちで戦うことを余儀なくされるのです。

また「個性」という一人一人の違いが片方は適応でき、片方は不適応となる環境が社会構造にあり「空気を読む」という事を暗黙の了解のように強いてきます。子供時代に「多動や衝動」の気質を持っていることが分かっていながらも、ひと昔のような「どうしてじっとしていられないの」と手を出す大人が未だに数多く存在します。社会は「ありのまま」を大切にしましょうなどとうたっていますが、それは詭弁で結局は適応できる「無個性」を受け入れ、常識、普通、型通りに矯正させるのです。

 

しかし聖書はこの孤独を完全に否定するのです。確かに「人は一人でいるのはよくない」とあります。そして、人間は決して一人にはならないのです。私は「孤独死」に注目しています。誰にも見つからず、突然死する、発見も遅れ、状態は腐敗も進むなど最悪の状態です・・・しかし、孤独を選択した「人」は寂しかったのでしょうか?孤独死を迎えた人はそんなに憐れまれる存在なのでしょうか?一人で生きて行くと誓った信念のようなものを持った人もいたはずです。「死」は人間に必ず訪れる現象ですが、「死に方」に良しあし付けているのは周りにいる人間です。勝手に「死」を美化したり憐れんだり、本人からしたらかなり余計なお世話ということも多分にあると思います。聖書が否定している「孤独」の否定は人間が一人でいるという事は良くないということでありますが、それはわたしたちには「神様」という天の父がおり、孤独死が駄目であるのではなく、人間にはその傍らに自分自身を全肯定してくれた「キリスト・イエス」がいることの無自覚な気づかなさ(自分は一人であるという誤認)を否定するのです。人は孤独ではないということです。

 

では、教会が信じて任せられていることとは何かに着目しましょう。一つには「キリスト・イエス」を十字架に架けて殺した私たち一人一人がその「罪」に対して悔い改めることを勧める事です。信じれば救われるという事を、自分自身の中で心の戦いと言いましょうか、その戦いをとおして私は罪人ですと気づく事を教会が持つ「キリスト・イエス」の言葉を伝えるという役割から私たち悩みを持つ当事者本人が気づかされます。教会は「キリスト・イエス」の言葉を通して教会に集う人々が個人個人で「罪」発見し「魂」の救いを得るための「キリスト・イエス」のお言を得るお手伝いするところです。ここで重要な事があります。わたしたちは教会という場で何を「罪」として見つけ、何を「捨てて」しまったかということを気づかなければいけない事です。

「キリスト・イエス」を十字架に架けて殺したことは、人間の「罪」であると同時に、私たちとって得難い絶対の理解者を無下に捨ててしまったことと同じです。大切なものほど、捨ててしまってからその存在の大きさ知り後悔します。しかし、「神様」は捨ててしまった私たちに後悔をする時間を与えくださり、新しく、希望を持てるように配慮して下さったのです。人間は「罪」で苦しみながらも、その「罪」が「キリスト・イエス」の「復活」によって救われるのです。このような奇跡を行い、民の為に働かれる神様は全ての事象の要因に「神様」の力が奇跡という形で関わって下さっていることを知らしめます。だから、「名」という形容に大きな意味があります。「キリスト・イエス」の「名」とは「神様」が全てに関わって下さる形をもった形容です。11節にはっきりと記されています『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』自分には関係の無い話だと無理解でいることは大変な「罪」です。わたしたちは皆大切な「イエス様」を一度投げ捨てたのです。必要ない・・・として、しかし、結果どうでしょう。わたしたちにとって基礎となる土台に「キリスト・イエス」が存在していることに気づくことになりました。「救い」の言葉を語る者は一度は「死」に「復活」した。私たちは人生の中でもっとも必要な社会構造の土台がなんであるかに気づかされたのです。

 

そしてその土台となりえるのは「キリスト・イエス」であって神様の「名」を語る事ができるただ一人です。どんなに権威を持とうとも、財力があろうとも、どんな力が働いたとしても、人々が「救われ」場の底の底に存在しておられるのは「キリスト・イエス」のみなのです。教会はその土台によって建てられています。勘違いしてはいけません、教会は会社のように人間が作り出したものではないのです。教会の始まりは聖霊降臨から始まり、教会という「場」が出来たのは後からです。祈りと宣教の場は「場所」がなくても教会です。私たちは原点に戻り教会が信じ任されている「信仰」の土台が「キリスト・イエス」であることを思い出しましょう。           祈ります。

 

「教会の一致と交わり」使徒言行録2:37-47 230611 阿久根伝道所牧師 竹花牧人

 人間には最も苦手のことがあります。個人差があるとは思いますが大きなものです。それは、自分が行った行動の結果を真摯に受け止める事が中々出来ない事です。例えば、大きなプロジェクトを会社で任された結果大損してしまう・・・それを自身のミスであると明らかな場合でも部下の不手際のせいにしたり、自分は間違っていないと責任転換をし続けることです。また派生的ですが、自分を棚に上げ、他人のミスを延々と追求するような気質です。自分がミスを犯しても、それ以上の失敗を他人がすれば、自らの失敗に嫌悪せずに済むといった具合です。これらは一言でいえば、自分さえよければという自己中心的な思考が問題ということで、これは人間の大きな「罪」と言え、「愛」の欠片のない酷く歪な人間の性です。

 

 私はめぐみこども園と阿久根伝道所牧師をしておりますが、ここまで来るのに、とても多くの仕事を経験しています。改めて振り返ります。コンビニエンスストアが一番長いですが、居酒屋の厨房、ファミリーレストランのウエイター、レンタルビデオ屋のスタッフ、書店の店員、工場のライン作業員、イベント設営の作業員、ライブ会場チケットの捥ぎり兼警備員、新聞配達員、郵便局の配達員、ピザ屋の配達員、ライブハウスのスタッフ、ゲームセンターの店員、某配送会社の荷物の仕分け、肉の精肉店、パン工場、遠方への派遣労働、一時期かなり多くの派遣会社に登録していました。これでも一部ですが、様々な仕事をしてみて、感じたことが、会社によってなりてを育てようとするホワイト企業もあれば、使い倒して辞めたければ勝手にどうぞ、といった具合に直ぐに代わりの人に切り替える最低の環境もあり、働く所が選べない、それは今の日本で顕著な相対的貧困の問題であり、仕事を確保することだけに手いっぱいで、仕事の中の人間関係や待遇を気にしている余裕がないという事を強く感じる事です。

 

 私たちは生きているだけで素晴らしい、「神様」からの宝物です。それが、この人間の性により酷い人格否定までされる。言葉では「ありのまま」でいいですよとか言っていますが、それが実現している環境がどれ程あるのか、気になります。仕事とは不思議なもので、大きな躍進をしても、たった一度の失敗で信用が一瞬で消えることです。それは、会社では降格などで明らかです。ひどい時はリストラにあいますね。何故人間の性の影響で、人が持つ「個性」賜物と言い換えますが、それらが踏みつけにされるのか?お話は前に戻りますが、人間は自己中心的な生き物だからです。そして自分たちと同じ思想や思考ばかりを重要視し、雰囲気や感覚が相いれないと判断すると直ぐにアレルギーを示し、「大人なんだから・・・」「普通にしてくれよ・・・・」など自身の価値基準で物事を判断しそこには「イエス様」を通してお話された全ての人は神様に愛され大切にされるという心が全く忘れられているのです。

 

 その根底にある人間の差別的な感情、他人の否定、自身の罪と向き合う事が出来ない弱さ、それを今朝の聖書個所は語ります。37節『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』人間の弱さを前提にそれを「神様」への信仰により、「私は人間の性で罪を犯し続けました・・・」と認めること、他人を愛するには、自分自身を愛しているようにと聖書は語ります。人に優しくなるには、自らの行い言動を省みることが必要なのです。

 ペトロは語ります。38節『すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』続きます。39節『この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれでも、与えられているものなのです』

 

 主が招いて下さる者・・・誰でもではないのでしょうか?全ての人が対象ですが、これは「イエス様」のお話を通して、「私はなんて罪深いのだろう」と一瞬でも自身の持つ人間の性に気づかされた者達の事です。全てと記されていないのは、この人間の世界には「神様」の存在を知らないで人生を終える人間も多くいるからです。そのような人々が自身の「罪」に向き合い「救われる」ように聖書は「神様」からの声を「イエス様」を通して語られます。

 

 現代の世界の社会構造の枠組みは「資本主義」でしょう。頑張れば頑張った分だけ報酬を得、のし上がっていくそして力の無い者は振り落とされる。このような社会構造は今に始まった事ではありません。40節『ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証をし、「邪悪なこの時代から救われなさい」勧めていた』とあります。これは権力や資本家達に巻き込まれるなと諭すもので、人間の誰しも「神様」の愛する子供であるという、「イエス様」が語った言葉とは真逆のものです。だからこそ、この世界が「戦争」等の争いで悩む事は「神様」からしてみれば大変「悲しい」出来事なのです。確かに国の存在の在り方は各国で違います。それこそ「死の商人」のような軍事産業でなりたっている国も沢山存在します。しかし、争いの起こる前提には必ず、人間の性が「要因」なっているのです。隣の土地が潤っていれば、良いな、欲しいな・・であったり、くれないならうばいとってやればいいなど・・聖書はこの性を「罪」と言っています。そして、争いの後必ず双方後悔をします。お互い疲弊し、一体なんの戦いであったのか。あまりに不毛、これは歴史が語っています。

 

 一つ提案をしてみます。100人の集団があったとして90人が特定の議題で賛成をしたとします、残りの10人の意志は繁栄されにくくなるのは明らかですが、新規案でこの人数のバランスが変わり、50人対50人なったとしましょう、こうなると、社会は分断されたと判断されます。しかし、世の中100人が全員一致で「イエス」という事はありません。しかし、この人間の判断基準が「神様」中心にかわったらどうでしょう。邪悪な時代に3000人もの人が招かれた者になったと聖書は記しています。全体値が分かりませんので多いかどうか確定は出来ませんが、自らの進むべき道が「人間のレール」から「神様のレール」へと変わる事で、魂の「救い」があることがはっきりしています。

 

 わたしたちが、「神様」によって初めは一人でも神様の招きにより一人、また一人と人間の「性」から解放される。それが神様の望む人間の社会構造でしょう。この解放は言い換えるなら、一人一人が神様の意志によって人間の「性」よってバラバラになっていた心が、お互いが「愛」もって尊重しあえる関係性に生まれ変わるということを示しています。

 

 最後に、「信者の生活」とテロップがありますが・・・これは財産を共有し物(財産)をもたず、慎ましくいきなさいと述べられているのですが、これこそ、「資本主義」とは真逆の教えなわけです。物は作り、新たな発見によって進歩します。慎ましく生きる事は「美徳」ですが、それを求めるのなら、聖書の生活を一字一句間違いなく行ってみるといいでしょう。恐らく、半日も持たず無理だと止めるでしょう。それほどに、現代は物が溢れ、私たちは「物」の奴隷になっているのです。わたしも、スマホを叩きわって電話を捨てたいと思うことがしばしばありますが・・・出来ません。

 

 今私たちは、人間の「性」によって迷っています。しかし、その迷い込んだ姿こそ、神様が「招いて」くださっている証です。同じように悩みを持っている人が必ずいます。教会はそんな私たちに「イエス様」の言葉を伝えて下さる招きの場です。どうか神様がそうであるように、一人一人がお互いの違いを許容できる「愛」を持てますように。    祈ります

 

「教会の使信」使徒言行録2:22-36(P215)230604 阿久根伝道所牧師 竹花牧人

 私たちは今「令和」の時代に生きています。日本の歴史を振り返ってみると、縄文時代から始まり、長い年月を通して現代があります。その長い年月にて私たちは遡れるなら自分の先祖は誰なのか、気になったことがありませんか。私は、母方の先祖、祖父の名をよく小さい頃から何度も話され今でも覚えています。古くは戦国時代の大名だったそうです。「葦名」という名です。少し古い歴史の教科書には、東北地方の武将の勢力図に、この「葦名」は「伊達」と共に記載されています。昔、「独眼竜政宗」というタイトルだったか?「伊達政宗」を題材とした大河ドラマがNHKにて放送されました。そこに、ライバル武将として「葦名」が登場します。残念ながら「葦名」は「伊達」に敗北し、天下統一戦争から離脱することになりますが、滅亡したわけではないようで、今でも福島会津に「葦名」の名は多く残っているそうです。祖父は本家とかなり近い親族だったらしく、私の母や叔父は本家に行ったことがあったと聞いています。

 私は、日本史、世界史、ともに大好きでして特に中世ヨーロッパのローマ対ゲルマン一族の攻防戦など、歴史が変わる瞬間を学んだ時心が震える思いを何度もしました。歴史の中に私たちは自分の祖先を見ます。全ての命が脈々と繋がれて今の私たちが存在します。

 

 今朝は神様の教えを忠実に守った王であり預言者である「ダビデ」の血筋に「イエス様」がおられることが述べられます。聖書は、ダビデの預言者という資質から、「メシア」が彼の血統から登場すると述べられていました。そして誕生された「イエス様」こそこの血筋の者でした。つまり、神様の預言通り「イスラエル」に「メシア」が誕生するという「預言」が現実に起きたのでした。その証人が「イスラエル」の人々なのです。

 「イエス様」がどのような経緯でこの地上に誕生することになったのか。それは、全ての預言が成就し「律法」が完成するためです。また、全ての人が「罪」から解放され「自由」になり、神様の永遠の「愛」に満たされ、「神の国」へ導くためでした。抽象的ですので、具体的に・・・人間が悪く邪な感情を持つ生き物であることは、創造者である「神様」自身周知しています。私たちもまた、悪さをしない人間が存在しないことを知っています。どんなに、善人であっても心の弱さにサタンが入り込み心を乱す事があります。旧約聖書にヨブという人物がいます。またノアという人がいます。彼らは、旧約聖書上善人のモデルという立ち位置にいます。彼らは「神様」の命令に従い、洪水の破壊から逃れ、そしてサタンの誘惑から立ち上がるという信仰を貫きます。が、ここで言えるのが信仰を貫き正しく生きるという事は非常に難しいということです。

 しかし、「神様」はこの信仰に弱い人間が大好きなのです。悪い事をしても、何度も何度も「愛」をもって赦して下さいます。「イエス様」はどのような死を迎えたのか、覚えておられると思います。「イエス様」が愛しておられた多くの「人間」達によって十字架に架けられ殺されました。もし、自分の親族や愛する者が理不尽に「命」を奪われたら、私たちはその犯人に同じか又はそれ以上の痛みを与えて苦しんでほしい・・そう思う人が多数だと思います。ここでは、殺人者の心情に触れることはしません。この十字架に架かって死なれた「イエス様」が三日目に「復活」されたという事象に目を向けます。殺された人間が甦るというありえないことが起きたのです。人間が今でも現代科学をもって人間の再生を様々な形で起こせない物かと研究をしています。DNAの研究や細胞分裂等のメカニズム、クローン技術の応用で臓器を複製し、老化した内臓の交換など、死を回避することが出来ないかということに日夜頭を捻っています。マウスの実験ではクローンを作り出したというようなニュースを聞いた事がありますが(あくまで噂・・・裏付けはとっていない)命を作り出すということは、人間が「神様」の領域に入り込むだけでなく、人間の大きな傲慢に繋がりこれらは必ず頓挫します。かつて神様に挑戦し人間は自身の力を「神様」に示そうとしました。旧約聖書に「バベルの塔」という物語があります。人間は神様に自身の力を示す為に天高い塔を建てようとしました。その結果はどうであったでしょう。「神様」は人々の言葉をバラバラにさせ、共同作業が継続出来ないようにされました。つまり、人間は神様によって、あくまで創造される存在として生きていることを忘れると滅ぶということです。

 お話が逸れました。繰り返しになりますが、ここでは、どのように復活したのかという事を見たいのではありません。ただ一つの事実として「イエス様」は「死」に打ち勝ち三日目に「蘇られた」という事を「イエス様」本人の姿を通して見せられ、現場にいた人たちはその「復活」の証人となったという事です。そしてその事実を今朝の最後の36節にて語意を強くして記されています。『だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです』つまり、私たちが殺した「イエス様」こそ、神様からの約束の「メシア」でありそのメシアを殺してしまった我々は常識では考えられない「人間」が復活するという「神様」の絶対的な力に畏怖を持ち敬意を払う必要があるというのです。

 

 とても説得力のある個所です。「イエス様」が生前に語られた「苦しみの中神様のご計画により命を落とし・・復活するという」言葉が、復活された今だからこそ私たちにズシリと胸を打ちます。ダビデの血統から始まるという「メシア」が、まさか私たちが殺してしまった「イエス様」であったとは・・・・わたしたちは何という事をしたのか。まさに絶句です。しかし、その「死」すら「神様」のご計画であり、私たちが罪の意識に打ちひしがれる事も「神様」にとって折込ずみです。悲しみと罪悪感が私たちを支配して初めて、「イエス様」の言葉を思いおこすのです。ルカによる福音書24:25-26『そこで、イエスは言われた。ああ物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないか』わたしたちはこの「イエス様」の言葉の通り打ちひしがれながら、「復活」の光を徐々に味わっていきます。「

 「教会の使信」というタイトルですが、使信とは信仰によって信じられてきた教えという意味です。かつて初めて「復活」のイエスに出会った弟子たちが、このイエスの言葉によって「教会」という共同体を形成します。現代の我々もまた、「復活」の「イエス様」を通して教会という信仰の場を守っています。

 

 「神様」を決して蔑ろにしない信仰形成を弟子たちの「弱さ」から「信仰」が「強く」される事への変化を通して私たちにも与えられますように。      祈ります。

 

「聖霊の賜物」使徒言行録2:1-11(P214)230528   阿久根伝道所牧師      

                                   竹花牧人

 最近インターネット上で「令和新選組」の代表の山本太郎氏の記事や動画をよく読み、視聴しています。初めは、左翼の塊であって共産党や社民党のような考え方であるかなと思って聞いていましたが、どうやらそうではありません。「令和新選組」は国民の今の現状を国民に代わって代弁に近い方向性でお話をしているように見えます。彼らの語る国民の現状、それはこの国が30年近く経済的な衰退に陥っている事を述べます。経済成長が止まり、世界二位の経済大国は世界三位に落ちました。この状況で国は30年増税を繰り返し国民からお金を吸い上げては国と密接な資本主義者のために使われてきましたと述べています。行き過ぎた消費税は国民を苦しめその消費税を無くすことで、年間の収入がプラス一か月分増えると言います。ボーナスが全ての国民に入るわけです。一か月に入る収入が激増するわけではありませんが、国民全体であるということで、消費行動が促され市場にお金が入り経済が活性化するそうです。消費が促されれば、生産も上がる需要と供給が形になっていく、それが全国民に到来する。非常に国民を思う政党に見えます。

 ではなぜ、日本はこの30年一部を除いての衰退傾向に陥ってしまったのでしょう。理由は明白です。利回りのよい企業にばかり投資をして、国民が従事している様々な産業に投資を行わず、偏った市場にだけ投資をして、それが富裕層と貧困層に国民を分断する結果になったのです。

 

 声を上げること、それは体力や気力を使います。つまり、ある程度自身の環境に納得している人たちはこの国のからくりに満足させられているのです。搾取されていることにすら気づかない。本当に声をあげたい人はその体力や気力すらなくなっているのです。社会福祉や子供への教育など、日本ほどお金がかかり、手段としてネガティブに捉えられている国は無いです。誰の為に国なのか?国は分断した責任を取ろうとわせず、自己責任として多くの人々を切り捨てています。

 

 では、このような社会情勢の中、教会はどうあるべきか問われます。教会にも少子高齢化など問題は顕著に表れています。自己責任として切り捨てられた国民の受け皿になることも教会が存在する理由の一つでしょう。「イエス様」が活動されていた時代、今の先進国が語る相対的貧困ではなく、明らかな貧困、絶対的貧困の時代でした。「イエス様」自身も貧しい環境に置かれています。社会に問題を提起するということはその情勢の最下層にいることと理解しました。利回りのよい人々は今よりもさらに裕福に、そればかり考え、国はその資本家達に牛耳られていく。それを良しとしないのが「イエス様」でした。「イエス様」は当時の信仰の経典であった律法にモノ申します。「律法」は完全ではなく、神様に与えられたものであるが、その律法を「完成」するために「イエス様」はこの世界に現れたというのです。「律法」に欠損していたものとはなんでしょう?それは、慈愛に満ちた「愛」する心です。~に記されているのだから、破った人は罰せられる。そこにどんな事情があるのかを審議せず、一方的に切り捨てるのです。当時のファリサイ派の人々や律法学者たちは、「イエス様」がいつ「律法」違反をするのか常に見張っていました。その考えを

見抜いておられた「イエス様」は「律法」の穴を見事に突き「神様」の「愛」を形をもって教えます。誰もがくるしかった絶対的貧困時代にこの「律法」の縛りから「愛」をもって「自由」にして下さり、この貧困が永続的ではないことをお話された「イエス様」はまさに「救世主」でした。しかし、私たちと同じ肉体を持ったもの同士の隣人という関係は「昇天」にて終わりを迎えます。その後は、全てを伝えた弟子たちにこの「愛」ある実践を「聖霊」によって行わせて下さいます。その集まりを「教会」と呼びます。それが、今朝「ペンテコステ」です。

 

 時代が変わる瞬間。これが今朝のキーワードの一つです。どの時代にも斬新で魅力的な人というのは存在します。しかし、どの人も人間目線です。私たちが人に齎すことが出来るサービスや権利であったり、物であったり、どれも小さき者たちの声をすくい上げるような現象です。このような動きは大変素晴らしく、まさに時代が変わる瞬間です。ただし、これらに絶対的に欠けているものがあるのです。それは、その斬新な発想や物を「自分」(人)の力で見つけ出したと勘違いしを「傲慢」に支配され、時代の寵児としてもてはやされた結果気が付かないうちに消えてしまってしまうということです。つまり発見は当たり前ではなく、そこに「神様」の介入があるということを忘れているということです。

 

 今朝の聖書個所にはこうあります3節『そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった』雄弁な人というのは、当たり前に存在しているわけではありません。口が上手いと言われてもそれはまさに聖霊によって与えられた「賜物」であると言えるほど特別なものです。

 世界が「神様」よって創造され、その全てを愛された「神様」がこの世界の全てに関与していると考えるのは必然です。人間に地球が作れるでしょうか?生命を作り出すことなど出来ません。つまり、今より2000年前に「イエス様」の登場という時代の変わる瞬間が訪れ人々は世界が「神様」によって創造されたことを再認識し、多くは当時の貧困層から小さな声を代弁し、一部に集中する富が如何に「人間」の浅ましい欲望であるかを教えられます。そして、語る者として「雄弁」を奮った「イエス様」が「メシア」であることを信じ一つの時代が終わります。

 

 そして弟子たちにその信仰のバトンは受け継がれ今朝にお話が繋がります。炎のような舌とは、燃え盛る熱き信仰を想起させます。どんなに話下手でも、魂の熱量があふれ出すような現象が起こったのです。「イエス様」から「弟子たち」へ、どんなに人間臭くても、一人一人に聖霊が下り、語る言葉をもたらされました。中には、え?何故この人がと思われる人も一人や二人はいたでしょう。しかし、聖霊の力はそのような人間の解釈を消し飛ばして、ありえない、知りえないであろう多くの地域や国の言葉を語らせるという現象を起こし、人は「神様」よって変わるということを示されました。

 

 時代が変わる瞬間は必ずこの「神様」からの啓示があり、AD2000年のこの世界の節目には多くの「神様」からの「賜物」を持った人々が現れています。

 

但し気お付けなければならい事があります。時代の変わる瞬間には必ず「神様」とは真逆の存在も現れるからです。だから、「イエス様」がお話したただ一つの普遍的な事実を絶対に忘れてはいけません。それは、「神様は愛するお方である」ということです。どんなに雄弁でもどんなに革新的でもそれに「愛」がないものは偽物です。この偽物に気おつけなければいけません。

 

 ペンテコステの今朝、時代の変わった瞬間、これが神様の御心であると信じる事ができるのは、聖霊の働きは「イエス様」が語っていた事が実現するためであり、それが起きたということは、まさに「神様」が働かれた紛れもない事実だからです。

                         「教会誕生おめでとう」祈ります。

 

「キリストの昇天」マタイによる福音書28:16-20(P60)230521阿久根伝道所牧師
                                    竹花牧人
 人は一人ひとり全く違った物語を持っています。人生という旅の中私たちはどのような物語を秘めているのでしょう。主人公は他の誰でもなく「私」です。しかし、このようなお話を聞くとき、人間が勝手に初めて勝手に終わるというような感覚を持ちたくなりますが、人間の感覚を絶対化してはいけません。人(命)はどこから来るのでしょう。人間の営みの中からでしょうか?確かに生物学上はそうでしょうが、誕生した命には「誕生する」というまさに誰にも分からない力が働き、「生」を受けます。生まれたというより、命が選ばれたと認識する方が正しいでしょう。そうなると、人生という旅の始まりは人知を超えた者から命の選びより始まると納得できます。その選びをする方こそ「神様」です。私たちは一人ひとり「神様」によって選ばれて「生まれた」のです。言い換えると「生かされる」生き方の始まりであり、これに気づく生き方を求められます。先にも述べましたが、人間が勝手に初めて勝手に終わるという物が人生ではありません。どんな生き方であろうと、それが善人であったり、悪人であっても、「神様」の選びによって誕生したかけがえのない命です。
 この人間の社会では、生きた時代の中での活動による社会貢献やその時代の社会が求めるニーズにおいて革新的な発見をした人達を「偉人」と呼ぶ事があります。正体不明で本当かどうか定かではない事象を「伝説」とも呼びます。この「偉人」であり様々な「伝説」を持ち現代においても影響を持っている人物、過去未来永劫変わる事のない人物それこそ「キリスト・イエス」です。「神様」よって誕生したという事自体は私たち人間みな同じですが、「イエス様」は少し違います。「イエス様」の誕生は非常に「伝説」的な部分があり、史的「イエス」の存在を認める一方「神秘的な」要素が多分に存在し、それは、長く研究がされています。多くの神学者は数多の持論を展開し、時代に合わせて多数派、少数派の交代をしながら、人間には「史的イエス」以上の事が分からないと分かっていても、「神様」を理解しようと探求し続けています。
 そこで重要になってく要素がキリスト教の中の柱の一つである「三位一体」という考え方です。聞いたことがあるかもしれません。これは、「父」(天にいます神)「子」(キリスト・イエス・子なる者)「聖霊」(キリスト・イエスの後に登場し霊的力の行使の業を弟子たちに伝え、また行う力を与える存在)この「三位一体」の考えに添うと、「イエス様」を十字架に磔にした行為は「神様」を殺したとも理解できます・・・・しかし、神様はあくまで「預言の成就」が実行されるというご自身の計画を進めます。それは、「メシア」(救い主)が誕生し人々が悔い改め、全ての「罪」から解放され救われるというものです。「神様」と「イエス様」の関係は聖書で多く記されています。父なる神様・・・という祈りや、「イエス様」ご自身の言葉に「私の言葉は神様自身の言葉である理解せよ・・」など多く存在します。お話が少し逸れましたが、「イエス様」の言葉を理解しようとすると、必ず、この「三位一体」に触れなくてはならないということです。「イエス様」が勝手に語り、多くの「伝説」を作ったというように理解されないために、「神様」の権能を「神様」ご自身が形を変えて「人」(イエス様)の形をとって行使し、後に「聖霊」が人々を力強く背中を押し、人間に度々起こる不思議な出来事に説得力を待たせるのです。それが、「キリスト教」です。

 その「伝説」的なお話を、現実的な「史的」イエス様に合わさて今朝の聖書個所は私たちに、「イエス様」ご自身による言葉と共に聖霊の力が働く事を示しているのです。そもそも、今朝の聖書個所の冒頭で登場する「山」・・・・これは、生前「イエス様」が弟子たちに復活した際天に昇られる場所として指示をしていたところです。しかし、「高い所」であったり「山」であったり、固有名詞は出てはいません。恐らく天に近い高所であったということを強調したかったのでしょう。これは、天に昇られるという事を分かりやすく、弟子たちに見せてその奇跡の「証人」として生きる事を求めたからでしょう。この山に来た段階では「復活」を信じられない「弟子」もおりましたからなおさらです。そんな「弟子」がいることも「イエス様」は存じていました。17節『そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う物もいた』その懐疑的な弟子を含め、イエス様「大宣教命令」を下すのです。そしてその力が「イエス様」の昇天の奇跡と、「聖霊」の力による後押しにより、形になります。「大宣教命令」・・・18節『・・・・わたしは天と地の一切の権能を授かっている』19節『だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい』「弟子」達はこの場所にいる段階で「天地の全ての権能を持っている父なる神とそれと等しい子なるキリストから聖霊を通して伝道する力を与えられ、その力を信じなさいという、イエス様の言葉を切実な思いで聞いていたのでしょう」。「私たちに出来るのだろうか・・・」そんなことは全く消え去っており(イエス様の一方的な確信により)『彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け・・・』この人々を許す権能を行使せよ・・あなたたちはそれが出来ると言われているのです。そして「イエス様」は何時いかなる時も共におられて助けて下さるというのです。20節『私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』

 「イエス様」の言葉はとても不思議です。「イエス様」に大丈夫だよ、安心しなさいと言われると自然と全ての物事が安らかになり平和の中物事が進みます。
人間の歴史から読み取れる「罪」の連鎖の根源は人間同士が疑心暗鬼に陥り、人が人を裁くという行為が当たり前に存在し、起きてしまった事象の責任を必要以上に加害、被害とわけ取り合うことではないでしょうか?・・・人間の裁きあいでは完全にお互いが納得して争いや悩みが解決するという事はないでしょう。ここまでは、キリスト教の本質である「愛」をもって接する、「私たちは」神様に愛されている兄弟姉妹です。争いは愚かです・
しかし、この「愛」が本質を突く物であっても、人間は「本質」を求めるかというと、必ずしもそうではないのです。例えば、死亡事件のさい、本質(原因究明)を求めて徹底して裁判をしようと活動していた人たちが、いつの間に消えていく。よくある話ですが、裏で和解金が提示されたりなど、そこに「愛」という本質がなくても、納得できない事が残っていてもそれを「お金」などで相殺しようとする分子が存在するのです。「愛」は素晴らしいけれど、人間はそれほど単純ではない・・・きれいごとで解決するのか。わたしも親友を「死」においやった社会に愛を持って生活できているかというとそれは「ノー」です。原因がはっきり分かっていたら仲間と共に乱闘でも起こしていたでしょう。争いも「愛」をもって「イエス様」のように許し合うこと・・分かっていても、やり場のない怒り、虚無感、どうしようもなく暴走する気持ちに今でもなります。決して繋がらない携帯電話の番号がついこの間まで私のスマホに入っていました。
ただ、「イエス様」は「命」をもって社会の「罪」理不尽に向かって行きました。それは知っていますし・・つまり、世の中の理不尽にすらも「愛」を持て、それが自らの命を賭ける事であっても。イエス様」ですら怖かった。怖いのは当たり前です。それでも、その命を賭ける魂の戦いの中、敗れることは決してないことを「復活」を通して知っています。命を賭けて誰かの「命」を救うこといつかきっとそれは形をもって人々の中に沸き起こる大きな戦いとして現れることでしょう。「お金」や「武力」で解決しようとすることは、逃げるという選択しです。争いの本質は「愛」をもって一度「死」に直面しながらも、そこから立て直し救われるというものです。この本質を、大宣教命令をもって「イエス様」は私たちに動き出せと命じます。「死」を恐れることは「愛」を信じていないからです。例え現実において綺麗ごとと罵差られようと、「愛」こそ「死」とともにあることをしりましょう。「死」をもって「死」に打ち勝つ事はできません。   祈りましょう。

「信仰に報いる主」ルカによる福音書7:1-10(P114)230514阿久根伝道所牧師
                                    竹花牧人
 昨今子供たちのなりたい将来の職業にユーチューバーが人気というお話をよく聞きます。めぐみこども園(私のもう一つの職場)でも、卒園生の何人かがこのユーチューバーになりたいと語っているのを聞きました。ユーチューバーの仕組みは単純で、なるには何ら資格など必要なく個人や団体がインターネット上でYouTubeのチャンネルを作り、再生回数を伸ばしていき広告宣伝に仕えると企業側に思わせ動画に広告を載せることで収入をえるというものです。再生回数は何がきっかけで伸びるかは全く分かりません。自分の趣味を載せたところ所謂バズル(ヒット)ということもしばしばあり、人気のユーチューバーはとんでもない収益を上げています。この流れはインターネットが世界的に普及を始めた頃から変わり、インターネットで誰もがノーリスクで一攫千金を狙える夢を与えています。しかし、好きな事や趣味等を公式に公開するというのはまさに昨今のSNS(ソーシャルネットワークサービス)の発展の影響が大きいです。今の若者は顔を知らずとも、ネットワークで繋がった関係を友人と認識しています。オフ会と言いリアルでの出会いでさらに深い関係性を持ったりもします。私も、SNSの走りであったmixiというサービスをやっていたころオフ会を行い今でも10年以上にわたり仲良くしている友人たちがいます。ぎりぎり、若者世代の話についていけるといったところです。
 前任地である宮城県仙台で牧師をしていたころ、牧師やクリスチャンの音楽仲間とバンドを作りよくスタジオに入り遊んでいました。そのバンドに多様性を持たせようと私は、初心者歓迎年齢性別を問わないという形でバンドメンバーを獲得していました。東北学院大、東北福祉大、尚絅学院大、高校生といった具合です。全く顔の分からないという流れでも不思議に音楽が好きという事で仲良くなっていきました。このような出会いも今風の共通する趣味による出会いなのでしょう。私はかなり熱く仲間と接していました。やる気だけはなくならないにように・・・・初心者は直ぐに逃げ出す事が多いので、そこにはかなり丁寧に気を配りました。先ずはお互いを信じる事、信頼すること、これがなければバンドはなりたちません。それこそ、デジタルな知り合いがオフ会を通して親密になるように、音楽を通しての初めての出会いを心から大切にしました。これを心がけると、暑苦しいのは苦手、「大人うざい」というような若者の心も以外と素直に開いてくれます。私たちは今「令和」に生きています。今の子供たちの心は圧倒的に、リアルな大人からの言動離れが顕著です。「うるさい」「聞きたくない」これは本音です。こうなってくると現在少子高齢化の教会は元来のスタンスでは若者に魅力を感じてもらえるものにはなれません。聖書には良い事が記されていると、お話をして「教会に行ってみないか」という形はもはや古き時代です。これが当たり前であって、教会が社会からの非日常として拠り所とされていたのは、昔のお話です。教会が特別であってそこに行けば、いろいろなジャンルの人達に出会えるというのは古き時代のことです。今では、ネット教会やら直にいく事が出来なくても出会いや学びがインターネット上で完結出来てしまうのです。今の教会がこれから飛躍、発展していくには、聖書の御言葉をどのような形で伝えて行くのかという課題の模索、さらに、教会とは「~というものだ」のような固定観念の放棄、聖書の普遍性を維持しながら今の時代に柔軟に解釈していくことが必要なのです。伝道とは全ての人々に向けてです。自由な発想と発信力を持たなければなりません。そこからの、「信仰に報いる主」です。今朝の説教タイトルです。

 キリスト教の普遍性とは何か?神学的に論じるならばそれは、「キリスト・イエス」の十字架による罪の贖いという「愛」の業によって人は救われ「天の国」へと導かれるということです。この「神様」の御業に応えられるように生きなさいと聖書は口をすっぱくして語っています。今朝の聖書個所も信仰の「熱量」を大きく取り上げ、「救い」の御業は「神様」を信じる信仰によって行われると語ります。百人隊長に重んじられている部下が病気であり、それを「イエス様」に癒して頂きたいという場面です。しかし、百人隊長は「イエス様」を「神様」そのものであることを知っており、正しい権威の持ち主であることも知っていました。百人隊長は自身の隊長という職業柄、「部下」との関係性に「権威」(隊長は信頼され、部下はその隊長に一目置く)を保持しており、「イエス様」の持つ正しい権威に自らの部下が救われる為に、御足労も、また自分がお伺いするのも失礼であると述べます。そして、口にした言葉が7節『・・・一言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください』これに今朝の根幹があるのです。「私たちは、神様によって生かされています。神様なしではいきられません。その畏敬の念をもつにたる神様は私たちを癒し救ってくださいます。しかし、来てほしい、や、伺いますではなく、ただ信じ一言、「癒すという言葉を下さいというのです」神様を見て信じる、または聞いて信じるのではなく、触れられなくても、「神様」の権威をこころから信じることが「救い」へと導かれる事なのです。
 
 教会が権威を持っているのでもなく、牧師が権威をもっているのでもない。社会で会社の社長や医者、弁護士のような「先生」と尊敬深くされている職業に共通していることは、自身や人間が、先入観やレッテル貼りで付けた「権威」に飲み込まれ傲慢になり、その「権威」に従う奴隷になりやすいという事です。しかし、神様の「権威」に従うならば、奴隷ではなく「自由」になるというのが、キリスト教の教えです。人間は罪からは決して逃れる事は出来ず、常に心はおっかなびっくりで生活しています。その苦しさを正しい「神様」の権威に従い、所謂「義人」となるならば、人間の欲から解放され罪の苦しみを滅ぼして生きていけるのです。

 これは、キリスト教の普遍的な考え方ですが、今朝のもう一つのテーマ、「信仰」を現代でどのように表現し、それをどのようにして多くの世代を超えて共有していくのかという事です。神学的などや、どこからか引用したような言葉で自身の「信仰」を裏付けようとするのは、恐らく、聖書を自身の信仰歴と信仰体験に合わせている人たちでしょう。しかし、そもそも、クリスチャンではない人々に「私は、~~で救われました」などというお話をして1%でも納得や理解をしてもらえるでしょうか。それは無理でしょう。逆に教会は難しい聖書のお話を理解できる人達の集まりである・・・・というような非常にネガティブな印象を持たれてしまう、これははっきり言って時代の流れをきちんと把握していないと言わざるおえません。お話をきいて、「わからなかったし、つまらなかった」というのと「わからなかったけど、面白かった」と思われるのはどちらが良いでしょう。キリスト教の普遍性をきちんと残しているのは当たり前ですが、後者の方が圧倒的にポジティブではないでしょうか。人間がもっともアドレナリンを出すのは、「好奇心」です。「面白い」ということは非常に重要な要素なのです。荘厳であるとか、「牧師らしい」とかなどははっきりいって無くてもこまりません。それよりももっとも大切なのは、キリスト教は面白いということです。
 今朝の「信仰」によって「癒される」というのも、ざっくり言えば、医者でも直せない物をなんだかよくわからない「存在」が助けて下さいと心からお願いをしたら直して下さったというお話です。・・・・・・こんな人知を超えた出来事を聞くと心を躍らせる人々は全ての世代に存在します。面白いからです。そこに、いろいろ加えて解釈やら、信仰とは何ぞやと伝えようとする人間の卑しい力が透けて見えるからこそ、「面白い」ことが難しく楽しくないに繋がるのです。

 聖書がわくわくとドキドキに満ち溢れいることを、現代のツールをもって伝えるのではなく、知ってもらう事、知っているということが「令和」の時代のステータスになるような教会がまさに今風でしょう。本日の聖書個所が「キリスト教」の普遍性を語っている事は分かる人には分かりますが、全くのゼロベースの方には、分かりません。しかし、先に述べた面白いと思ってもらえる個所です。不思議は「好奇心」を駆り立てます。先ずは、「キリスト教」とは知ってて当たり前というような面白い宗教であることを知ってもらいましょう。ユーチューバーがなりたい職業に上がるのなら多くの牧師も参加しているYouTube牧師に参戦するのもありだなと思います。

 教会の中をしっかりしてほしいと声聞きます。現状維持が少子高齢化社会の影響を大きく受けるのを感じているはずです。昔はという発想を一度地面に置いてください、今は「令和」です。ネット社会です。スマートフォンがあるのが当たり前という世界に生まれた子供たちが中心になっていく世界です。発展飛躍をするなら、このデジタルが当たり前という世界の中に適応しなければ、消えるでしょう。「イエス様」のおられた2000年前なら、現地に行き、生の声を聞くしか出会いはありえませんでしたが、今は顔を知らなくても友達になる事ができるツールが世界を席巻しているのです。発展や発想の展開が怖いというのでしょうが、多くのジャンルで若者に世代交代がなされる時代の流れが来るとき時、流行を敏感に感じ時代にそった指導者が世界をリードしてきています。マイクロソフトの「ビル・ゲイツ」やアップル社の「スティーブ・ジョブズ」フェイスブックの「マーク・ザッカーバーグ」現代的ですが、古い時代では、「トーマス・エジソン」や多くの発明家達、そして数多の思想家、革命者、古きを壊し新しく世界を構築する革新的ものです。教会は普遍性を維持しつつ発信革命の時代にきているのです。この波に乗らなければ多くの教会は無くなっていくでしょう。わたしたちが与えられている一つ一つの大切な賜物が生かされることを信じ、「楽しく」「面白く」「革新的」そして「普遍的」であるこれを実践できる方法を模索しましょう。    祈ります。

「神の子の自由」ヨハネによる福音書15:12-17(P199)230507阿久根伝道所牧師

                                    竹花牧人

 「TPO」という言葉を聞いたことがあると思います。これは、「いつ」(time)「どこで」(place)「どの様な目的」(occasion)かを知ったうえで、それに適切な服装をすることを意味します。私たちは、成長する過程で様々な場所を経験します。子供のうちから入園式や入学式、卒業式や冠婚葬祭とうです。30歳手前位になると一通り経験するのではないでしょうか。そしてこの経験は主に友人関係や家族の間での行事として大切にされます。何が言いたいかというと、服装などその場にふさわしい雰囲気をあらゆる場面で私たちは求められているとういうことです。しかし、神様から見た、「TPO」とは一体どういうものでしょう。急に神様からとお話しビックリされたかもしれませんが、神様は私たちを愛して下さり、その愛に応える生き方をするなら、「私たちは友人」であると今朝の聖書個所は述べます。12節『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である』13節『友のため自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』14節『わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である』愛を持って生きることこそが「友人」たるものであると聖書は語っています。「神様」からの言葉を「イエス様」は述べております。では、私たちは、この大切な神様の前に立つとき「TPO」を考える必要があるのでしょうか。

 

 ふと聖書の言葉を思い出します。神様の御前に立つとき、履物を脱いだとありました。モーセが有名ですね。神様のいる場であるから脱ぎなさいとありました。私たちも(日本では)家に入る時靴を脱ぎます。靴を脱がずに家に入るなど無礼であり、常識がないと批判されるでしょう。ここで、「友の中にも礼儀あり」という言葉が私の頭の中で連呼します。神様は人間に対して非常に難しい条件(愛をもって接すれ)を出します。愛ある友人関係、それがどれほど難しい問題であるのか。

 

 私は農村伝道神学校時代に学生寮に住み10人位で共同生活をしていました。協調性を養うため、さらには他人に寛容になる訓練、すなわち愛ある心のキャパシティを広げようという狙いがあるのです。(神学校あるあるですが・・・・)私が在学していた時、恐らく過去に例が無いくらい精神疾患、発達障害、セクシャルマイノリティ、アルコール依存症、など、病気と障害と言われる人だらけでして、健常者(差別をして使ってはいません)がほとんどいないという環境でした。ここに世間一般の「愛」ある立ち振る舞いを行える人がいたのか?はっきり言うと、自分の持つ問題解決に精一杯で他人に優しく常に寛容でい続ける事が出来る人はいませんでした。毎日寮の集会室で酒盛りを始め絡んでくる学友、昼間から飲んでいることもあり、常に酒臭い印象でした。私も一回事件に関わる事になり、間接的に学友が停学を受ける理由の一つの要因を私はしてしまいました。本当に当時の農伝は病院(それも閉鎖病棟)とさえ揶揄されていました。想像できないかもしれませんが、病気の人だらけの環境にいるとそれが正常のような感覚へと適応を始めます。その感覚の中、一般社会にはいり健常者と共に生きる事ができるのか・・・・必ず弊害が出ます。理解されません。さらに、これは個性だよと綺麗に纏めても、個が強すぎだとか、こだわりが強いとかと言われ、「普通」というカテゴリーに入る事は非常に困難です。ここで、出てくるのが「TPO」です。私は服装にかなり執着があり、神学生時代に近隣教会に革のジャケットを着ていき、その日の式典(就任式)に参加させてもらえなかった事があります。しかし、この「TPO」とははっきり言えば、本来のその人の人間性を否定し、安易に皆同じでいなさいという全体号令の表現のように思います。よく、「普通」にしてくれ「常識的」にはなどと言われますが、それは神様が見たらどう思うのでしょう。人間の「TPO」をまもれない人を「あなたは常識がないから愛さないよ」などとは絶対に言われないです。なぜなら「神様」はその人の人間性に着目しており、さらに言えば、「人間」を愛しておられます。服装や、言葉を愛しているのではありません。その人、一人ひとりのありのままを「愛して」くださっているのです。

 

 私が本格的に空気を読まなくなったのは、私の親友たちが私の内面をよく知り、革のジャケットが私の正装であると理解してくれた時からでしょう。ロックな牧師いいじゃないか・・・私を取り巻く今の環境は少し生きづらいですね。友人と言える仲間は近くにはおらず、家族も親戚もいない・・恐らく精神衛生上きつい・・・少し前の自分だったら恐らく遅かれ早かれ、発達障害によるパニック障害と統合失調症が再発し生きているのがやっとだったかもしれません。しかし、今は苦しくもなんともありません。人が人を理解し思いやるという行為は、わたしにとっては偽善でしかなく、そこに神様の介入があってこそ、人間の「愛する」という行為が成り立つからです。人は言いたくなります。それこそ、比較です。批判です。自分の言っている事が一番でありたい。そいう生き物であることを今朝の聖書個所は述べているのです。「愛」があって友人となる。そして、その生き方をするには、「イエス様」の愛に応える事が必要であるというのですから、まずは自分の生き方を「イエス様」と共に生きる生き方に変えてもらう必要があるのです。

 

 先日九州教区の総会に行ってきました。今年で現地に行くのは二回目です。私は、単車で行きました。バイクのお話をすると、全く問題なく、往復460キロを走ってくれました。高速も楽しく運転してきました。いつも言われますが、運転怖くない?やら、心配です?やら、私に対しいて非常にネガティブな感覚を持たれる人がいます。車の運転に対してもです。・・・私は東北仙台から阿久根まで1600キロの過程を車で走破しているのですよ、なめられたものです。私は、自分の得意、不得意を認識しています。障害特性により、人より短時間での強烈な集中力を有しています。これは一日持たない事が多々あるのですが、この集中力の中、小まめに時間を区切りながら仕事をしています。極端に言えば、60分の中、10分ごとに休憩、計6回休憩、しかし、10分の仕事の進行状況は所謂健常者の方の数倍の力を発揮します。それが、見当違いとされ、批判されたり正当に評価されないこともありますが、あまり気にしてはいません。何がいやか、それは自分の得意分野で良く知りもしないで無自覚に批判したり、比較してくる人がいる事です。気にしてはいないと述べましたが、イラっとします。喧嘩を売られたら残らず買い取る、この気質は変わってはいませんので。

 

 少し自分のお話を中心にしましたが、つまり、人間が人間同士「愛」を持って関わることが出来るようになるという事は「イエス様」によって選ばれる(どんな人も)ということであり、「神様」の愛に触れ、やっと互いに愛し合い事ができるようになるのです。

 

「神の子の自由」というタイトルですが、この意味は人間には「自由」がありそうで実は無く、制限されて生きているのです。自由を爆発させるとあっという間に一人ぼっちになり、集団では不自由極まりない状態に陥ります。私はそれでも生きていけますが・・・神様の「愛」に触れて、やっと人間という鎖から離れて、自由に「愛」を持って生きる事が出来るのです。それを「イエス様」は生き方で証明されました。私たちが本当の「自由」を持って生きられますように。       祈ります。

 

「命のパン」ヨハネによる福音書6:34-40 230430(P175)阿久根伝道所牧師

                                   竹花牧人

 日本は、世界の中での幸福度ランキングという資料で、137カ国中47位(2023年)という結果を出しています。これが低いのか高いのか、様々な意見があると思います。幸福の反対の言葉に貧困があると思いますが、我々が普段それを感じる事があるでしょうか。所謂、アフリカなどの飢餓等の「絶対的貧困」が目に入る事は日本ではないでしょう。しかし、昨今危惧されているのが、「相対的貧困」です。目に入る貧困格差は隠され、社会の隅で苦しむ人々が日本の中では社会問題になっています。戦後日本ではバブル景気に沸き、上流家庭、中流家庭と真ん中の枠組みがあるとされてきましたが、現在は富める所に景気の良さは集中し貧しい人々はその苦しさから脱することは難しく、ますます貧困へと落ちて行ってしまっています。目に見えない貧困とはいったい何なのか?そしてどういった家庭に起こりやすいのか。

 子供間の貧困は残酷です。以前にTVのドキュメンタリー番組を見ていた時です。子供たちのグループがファストフード店に入り、楽しく放課後を過ごしているように見える光景の中、皆が美味しそうに食べているハンバーガーなどをただ「見ている」しか出来ない子供がいるのです。子供たちはお小遣いの中美味しそうに食べているのですが、子供にお小遣いをあげることが出来ない家庭があるというのです。ファストフード店に行かれた方ならだれ者が思いますが、決して高い料金設定ではありません。私は、ふと自分の昔の事を思い出しました。ファストフード店とはオシャレで行った記憶は少し大きくなってからですが、私はよく、近所の駄菓子やさんに行っていました。今日学校が終わったら「00屋」に集合ね・・・とみんなで、小銭を握りしめ楽しみで仕方なかったです。10円のうまい棒、30円のパックのスポーツ飲料、5円のチョコ、黄な粉坊やスモモといった今でも需要があるのか分かりませんが、100円あればいろいろ買えました。消費税も当時はなく、計算も楽でしたし。あっブタメンも美味しかったですね。60円だったかな。少し高級品でした。あの頃は、本当に今と違い、どの家の子供も駄菓子屋さんで買い物できる小銭は持っていました。行動範囲も広く自転車は最高のツールで遠い所だと私は子供の小さな自転車で隣町に一時間位かけて友人と一緒に行っていました。お金をかけて遊ぶのではなく、お金をもっていなくても皆と楽しく遊べた・・そんな記憶があります。駄菓子なら誰かが手持ちがないというのであれば、みんなで10円ずつ出し合って絶対に誰かがお金ではじかれる様なことが無いようにという文化があったような気がします。今思うととても暖かい子供時代でした。

 現代、令和のこの時代。この暖かさはとても薄くなっているような気がします。気前よく奢るよなんて言えない。なぜなら、多くの家庭が貧しくなり(相対的貧困)子どもたちにも「気前よく」なんていう懐の厚さが無くなっているのです。誰もが生きる事に必死です。子供たちのお小遣いに気を配っていられる家庭が激減しています。このような家庭環境で育った子供たちは人生の選択にも大きな支障が出てきます。将来の夢や希望を中々な抱けない。例え持っていても、お金がそれを許さない。子供の内から働く事を強調され、本当に学びたい事を我慢せざるおえないのです。今では個人のステータスに大学卒業というのが当たり前のようになっていますが、大卒は当たり前ではありません。高卒もです。私は、高校、大学共に奨学金を貰って通いました。今は毎月返済をしていますが、あと15年位ありそうです・・・・余談でしたが。

 

 今朝の聖書個所に入っていきましょう。35節『イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」』この言葉をどうとらえる事が出来るでしょう。貧困に終止符を打ってくれる言葉でしょうか?直接には解決の言葉にはなりません。お腹が空けば「今」パンが欲しいのです。喉が渇けば「今」水が欲しいのです。・・・しかし、解決の言葉にならないと言いましたが、神様は苦難の中必要な物をその瞬間に与えて下さる方でありました。「出エジプト記」には長い荒野の生活の中、マナを恵まれ、水を岩より与えて下さいました。では、今解決にならないと言った意味を説明します。我々は者が溢れかえる社会に感覚が麻痺しているのです。神様が無償でパンと水を差し伸べても、それでは満足出来ないのです。但し、これは日本の中と言えます。それこそ最初に述べた「絶対的貧困」が顕著な環境においては「パン」「水」それは、お金やりも遥かに価値があり、それをくださるという「イエス様」の言葉はまさに最高の「救い」の言葉です。

「解放の神学」という言葉があります。この言葉が熱く燃えているのが、発展途上国と言われる国々です。物に溢れかえり基本的な「衣食住」では満足できない欲の塊になりつつある現代の先進国では、教会の存在は価値を下げてしまっています。実際ドイツの立派な教会は建物だけで、信徒は全くいないという悲しい現実に晒されています。貧困に立ち「救い」からの解放を説く「イエス様」の言葉はこの現代においても貧困に立たされている国々を中心に盛り上がりを持っているのです。発展し発達するほど人間の欲は際限なく脹らみそれが一部の富への偏りに変わり、「相対的貧困」が生まれているのです。

 

しかし、神様の言葉が、富に溢れた現代人に伝わらないかといったらそうではないのです。神様の言葉は「不変」です。この言葉を解釈するその時代の人々のあり様が変化しているだけです。実際に、富を貧しい人たちへと施す姿があります。この姿は、聖書でも「金持ちの男」のお話で有名です。聖書では、全財産を貧しい者へ渡しなさいとあります。そうすれば、「神の国」に入れますと。「神の国」へ入る事が目的では決してないでしょうが、こういうお話を知っています。事実を基に映画化されたお話ですが、「フリーダム・ライダース」というフィルムがあります。これは、貧しい地域の子供たちが、大人になる前に何割かは薬物や銃器関係で命を落とすという環境に裕福(その地域の人からすれば)な教師がその地域の学校にやってきて教鞭をとるというお話です。初めは子供たちは誰一人彼女の話を聞きません。さっさと帰れと罵られ、授業にすらなりません。しかし、この女性教師は諦めませんでした。ただ、ひたすら、「世界」というのは「今」この瞬間だけでなく、連続して続いていて、それは、「あなた」達の発想の転換で大きく変わるのだと話すのです。ただ、それには富の力は必要とも語ります。みなにお金持ちの道楽のように思われてもそれで良いというのです。なんとしても、世界をもっと知ってほしい。そのために教鞭をとったのだと言うのです。彼女は子供たちに「本」を読ませます。初めは字を読むことすら困難であったのに、次第に学ぶ喜び、一人ひとり自分の可能性を持ち始めます。銃で「ギャング」にはいることが全てだと思っていた人生が、変わって行きました。私たちが、貧困の格差として大きく分かれ始めているからこそ、富を持つ物は、人という同じ私たちの兄弟姉妹の可能性に手を伸ばす事が格差社会のかかわり方なのではないでしょうか?貧困格差その最も大きな問題は富を私欲を満たす事のみに生きる事です。この世界に人間が造れる者は有限なものだけです。誰もが、貧困、富裕の中にいつ天秤が傾くかは分かりません。

 

生きて人と関わる事。それには、必ず神様の言葉がなければ伝わらないと思います。人間の言葉がどんな人生であろうと、人の感性の中でのお話にすぎないからです。神様は「命」がどこから来て、そしてその「命」が最後どうなるかお話しています。39節『わたしをお遣わしなった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。』40節『わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである』

「イエス様」の語られたこの言葉がどうして人々の心に突き刺さるのか・・・それは、「イエス様」は全てのどんな人間をも「愛して」その懐に入れてくださったからです。「全ての人」です。人間は好きな人や嫌いな人とすみ分けをし、自分の都合で生きています。口で私は差別などしませんと言っても、それは人間には無理なのです。だからこそ、その生き方を貫徹した「イエス様」の言葉には重く、そして暖かい力があるのです。神様が「イエス様」を世界に遣わして下さったのは、神様の「人」の心と身体が「救われる」ためにです。そして、その生き方をなぞることなら、私たちにも限界はありますが出来ます。私たちは平等に救われる「命」です。どうか、その命を救われる「パン」を一人ひとりが出来る範囲で多くの仲間に「イエス様」のように振り分けられるような力を頂けますように。私たちを強くしてください。          祈ります。

 

「復活顕現➁」ルカによる福音書24:36-43(P161)230423阿久根伝道所牧師

                                    竹花牧人

 心に疑念を抱く事・・・身体に疑念を抱く事・・・それを顕著に感じる時があります。それは老いと病です。健康でいる時は自身の感覚に疑問など持ちません。それどころか、自分のメンタルやフィジカルに溺れ傲慢になる人たちもいます。そのような現象を認知の高低差と表現してみます。実は身体、心ともに認知機能というものは全ての人間が同じではないのです。例えば、メンタルの認知が高い人の場合、どのような仕事や人間関係もそつなくこなします。何故、これが出来るのか、それは、人の表情や仕草、立ち振る舞いを無言で発せられた言葉として自身で相手との距離感を適度に調節し、様々な場所で応用しこなすのです。このメンタルの認知が低い人は、相手との距離感を保つ事が難しく所謂コミュニケーションにおいて危機的な状況になります。メンタルの認知機能とは誰もが持つ目に見えない心の壁を上手く壊せるか、直球のバズーカ砲のように思ったことをストレートに打ち出してしまうのか、このようなやり取りをメンタルの認知機能とします。

 ではフィジカルの認知機能とは・・・それは、自分の体を思い通りに動かす事が上手く出来るかそうでないかという感覚です。一般的にこれを運動神経が良いとか身体能力が高いなどと言い、逆の場合は悪い、低いと言われます。これは、運動が好きとか嫌いという単純な解釈ではなく、同じ運動をしていても出来る人と出来ない人が存在してくるのです。この違いは身体の感覚を全身で結合し一つの個体として認識できる力が低いか高いかというのが非常に関係します。

 この認知機能というのは、生まれてついてのものであり、鍛えることは出来ますが、自然に高い表現力を持つ人がいる事は事実であり、大抵の人はそれを才能であったりと自分に対し限界値をつけてしまいがちです。

 

本日はこの認知という言葉がまさにぴったりくる聖書個所です。36節『こういうことを話していると、イエスご自身が彼等の真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われた』とありますね。続く37節『彼らは恐れおののき、亡霊をみているのだと思った』死んだ人間が復活するという事が信じられない出来事でありますが、彼等(弟子達)は「今」生きている「イエス様」を目の前にしてお話しているのです。それでも、亡霊だとか、信じられないとか、明らかに認知機能が麻痺しています。メンタルの認知機能が「人間」が甦るという現象についていけないのです。これは、人間の認知、五感では説明できない異常現象が起きてしまっていることを鮮明にしています。しかし、復活された「イエス様」を理解しようと頑張ってはいるのです。信じられないと思考が展開されているということは、頭で考えているということです。聖書では「彼らは思考が止まった」や「頭が真っ白になった」とは記していません。理解できないことに蓋をして人間に与えられた「救い」を無かったもののようにしようとは「神様」は全く考えていません。「イエス様」は弟子たちにきっかけを与えているのです。それは、人間の認知では表現出来なくても、たとえ理解出来なくても、それでも、「イエス様」は「復活」されて罪を贖って下さったという事実を人間の思考の限界を超えて、ただそれを「信じる」という「信仰」に立ちなさいということに向けてのきっかけです。

 

これはあくまで、思考や心の中の気持ちに比重をおいた認知における「イエス様」の働きかけであります。では、身体の認知に何か「信仰」へのきっかけはなかったでしょうか?あるのです。39節『わたしの手や足を見なさい。まさしくだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが・・・わたしにはある』これは私たち自身が人であることを五感で認識し、自らの頭からつま先までの感覚を持つ事で認識する人理解に「イエス様」が寄せて下さって「信仰」へのきっかけを、人の身体の認知によって理解できるように促してくださっている文書です。この身体の認知に寄せて「信仰」へと促している箇所が今朝の最後42-43節『そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って彼らの前で食べられた』です。人間は生きていれば食事をする、この当たり前の感覚に「イエス様」は訴えて「弟子たちに」安心して「信じなさい」と叫ばれるのです。死んだ身体は食事をしないという具合です。食べる感覚はだれにでもある身体の認知です。

 

しかし、例外があるのです。それが先に記した老いと病による認知機能の衰えです。またはもともと認知機能が働かない体質などです。私がこの文を綴る事が出来るのは、身体の認知の衰えと精神的な病をもち、発達の部分でも少しハンディがあり、この心の認知が非常に不安定になりやすことが理由です。毎日見ている人の顔が一日の内に誰だか分からなくなる、朝は表情から名前を呼ぶことが出来ていたのに、夕方には顔と名前が一致しない、その感覚を俯瞰している自分がいる。認知が意識レベルの低下を起こすのです。現在は薬と定期的な検診、リズムの取れた生活習慣によって大きく崩れる事は少なくなっていますが。また身体的な衰え(バスケットボールをやっていた20年前くらい、普通にできていたプレイが出来なくなっていること)と病と発達におけるメンタルの認知の変化は非常に苦しい状態に私を追い込みました・・・・が、神様は身体と心の二つだけで、「救い」へと導いて下さっているのではなく、もっともっと大切な忘れる事が絶対にない方法で私たちにきっかけを下さっています。それは、主観的な感覚が例え存在せず、自分を自分だと認識出来なくても、神様が一人一人を、大切な「わが子」として認知してくださっているという事実を理解ではなく、私たちがこの場に「いる」ということで、すでに証明されているということです。「死んでいる」のではなく「生きている」自分を理解出来なくても、そこに「いる」んです。神様が「あなたはここにいるよ」と仰っている、それは、「罪」まみれな人間が心乱しても、36節『・・・・「あなたがたに平和があるように』という言葉から分かるように、ネガティブに自身の存在に疑問を持たないようにされるために人間の存在価値を「神様」が絶対的に肯定しているということを私たちが知るために「イエス様」は「顕現」されたのです。

つまり、人が盲目になり難聴になり、性格までもが変化したとしても、その自分に価値をつけて下さるのは自分でも、他人でもなく「神様」なのです。大きく言えば、どの様な状態であっても、そこに「イエス様」は現れて下さり、自分では判断出来なくてもそこに「いる」ことを認めて下さります。今朝は、「信仰」のきっかけが大きなテーマです。気づきには、身体的な認知、心の認知が人間特有であることを述べましたが、それでは解決できない環境や状況は無限に存在し、そこには、けっして揺らぐことがない、「復活顕現」があり、「神様」によって「今」そこに「いる」ことが素晴らしいと世界中の人間が認めなくても神様だけは肯定してくれるという事です。感謝しましょう。      祈ります。

                       

 

「復活顕現」ルカによる福音書24:13-35(P160) 230416 阿久根伝道所牧師 

竹花牧人

信じるということ、私たちは夢や目標に向かって努力しそれが結果に結びつくと「信じる」ということを胸に秘め様々困難に立ち向かっています。人は自分では気づかないうちにその努力が必ず実になると信じることで、壁を越え、自分自身が描いた姿になっていきます。しかし、自分を信じるという事が如何に危ういか、自身の目を曇らせてしまっているということも事実としてあります。一度疑いの目を持つと、それは脳裏から離れず、付きまとい、確信を持って自らの一歩を進めなくなるのです。

今朝の弟子たちを見てみましょう。16節『しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとはわからなかった』明らかに一度は真剣に信頼し信じた「イエス様」を見つけることが出来なくなっています。かつて「イエス様」という大黒柱が弟子たちに「信仰」の素晴らしさを教え、「イエス様」がいることで、自身の「信仰」を厚くし「神様」を自発的に信じる事が出来ていました。しかし、肝心の「イエス様」が十字架に架かり亡くなってことで自らの信仰に迷いと疑惑が生じてしまいました。信じるという事がとても脆く、弱いものだと分かります。しかし、私たちは、努力の結果が成功であることを信じぬくことで、自身の未来図を想起します。繰り返していますが重要な事です。なぜなら、努力信仰と神様(イエス様)を信じる「信仰」は似ていて全く違うものだからです。努力信仰は文字通りひたすら何かに邁進し、理想像に近くなるまで自らを追い求めることであり、非常に強力な精神(メンタル)が必要です。しかし、神様を信じるという信仰は努力や自分の意志で強固な心を作り続けることではないのです。どういうことかと言いますと。人間のみの頑張りは失敗、失敗、失敗・・・そして成功、そこからまた失敗と必ず良い結果に結びつくとは限らず、その目標に到達するまでが、人生の目的になり、結果「死」ぬまでその理想には手が届かなかった、となることがあります。しかし、神様を信じる信仰はただ一度「悔い改め」信じる事で、あとは信じる事に努力は必要ないのです。仮に神様から離れてしまっても「神様」のほうから私たちに深く関わって下さるのです。人間の迷いは人生において尽きませんが、神様は私たちに努力など求めません。「信じる」という事は、自分に自信を持つことではなく、自身があっても無くても、人が必ずだれもが持つ迷いに陥いる時、その解決策が日々の努力ではなく、勝手に関わってくる「神様」の計らいであるということなのです。

 

弟子たちは大いに悩み迷走しています。19節『・・・ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした』20節『それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです』21節『わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります』そして「イエス様」がお墓から消えた事を知り、困惑しています。この弟子たちは自らが「イエス様」を十字架へ送ったとは言いません。あくまで、議員や祭司長たちに民全体が行った悲しい出来事のようなニュアンスで語っています。そもそも、悩みの大きな原因は、弟子たちが自身のあまりの無力さに打ち負かされているという所です。何故、引き渡してしまったのか?十字架の建てられたゴルゴタに特攻をかけるなど、実力行使が何故出来なかったのか?それは、神様がそれを望まず、ただひたすら、十字架に架かり三日目に「イエス様」が復活されるという奇跡が実現するためだったのです。神様は弟子たちに決して暴力などもって実を呈して「イエス様」を守らせようとは全く思ってはおらず、逆にその「死」から「復活」される事を目撃する証人として立たせたのです。

 

弟子たちは「イエス様」の「死」にばかり囚われ、「復活」を忘れてしまっているのです。これはまさに人間の努力信仰(私たちがもっとしっかりお支えしていればこのような「死」を迎えることはなかったのでは・・・?)ここで注目すべきは、私たちが信じている姿を「イエス様」(神様)がとるとは限ないといことです(目で見たり、耳で聞こえるような姿形とは限らない、たとえ視認できても、それを認識することができなかったように)そのような神様が「イエス様」を通して何を伝え、弟子たちが何に気づいて欲しかったのか。それは、過去に囚われ、~していれば、や、こうしていればと思い悩むのではなく、「今」なにが起こっているのか、そしてそれは、人間の努力云々で変わるものではなく、「神様」の人間に対する新しい約束が実現されるためであったのです。

 

お話を変えます。「神様」は剽軽な方ではないか・・・・今朝改めて思いました。弟子たち「エマオ」への途上本当に「イエス様」だと気づかなったという所からです。弟子たちには「イエス様」のそっくりさんのように見えたのでしょうか?生前の姿と全くの別人のような外見であったのでしょうか。聖書には弟子たちの目は遮られていたとありますから、認識出来なかったのは、弟子たちの心に「復活」するという奇跡を思い起こさせるために何らかの催眠術でも使い試しておられたのか、想像が膨らみます。さらに不思議なことは続きます。「復活」しお墓にはもういないと知らされていたにも関わらず、信じられない弟子たちに25節『そこで、イエスは言われた。「ああ物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26節、メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずだったではないか』27節『そして、モーセとすべての預言者から始めて全体にわたり、御自分についてかかれていることを説明された』何が、面白いかと言いますと、ここまで、「イエス様」本人が語ったにも関わらず、まだ「気づかない」といところです。聖書の読み手には「イエス様」だということは開示されましたが、弟子たちが「イエス様」だと気づくのは村について共に食卓を囲んだ時になのです。そして気づいた時には「イエス様」は消えていたのです。これが何を意味しているのか?・・・弟子たちの体験している亡き「イエス様」の三日間において自身の信仰が努力信仰であったことの気づきと共に、「神様」が私たちに現れる時は何の前触れもなく、私たちが求める時に気づかない姿で現れ、「気づき」を自身で発見するような形で見えるのです。何故、このような「顕現」をされるのか、それは、私たちに「復活」を見ようとしてみさせるのではなく、心が熱くなる、心が揺さぶられるという事を通して、「神様」を見つけるように大変遠回しな方法を神様は用いるからです。

 

これは、神様がわたしたちに深く深く関わろうとして下さっている証です。私たちに「気づきを」を与え自らがその存在に気づくようにされているのです。「復活」は弟子たちだけでなく、わたしたちにもまた見つけにくい、信じにくい方法で神様は示されます。しかし、「神様」が人間の心を信頼している証拠でもあります。信じられているのだから・・・それに応え信じていきましょう。      祈ります。

 

「キリストの復活」ルカによる福音書24112P159230409阿久根伝道所牧師

竹花牧人 

イースター、それは「イエス様」が十字架に架けられ亡くなられてから三日目に「復活」された日です。この「復活」というキーワードが良く分からないかもしれません。

 説明を致します。人間は死んでしまうと「人間」の世界からいなくなります。それは、文字道理生きている人たちとのお別れになります。私たちも人生の中で多くの「死」による別れを経験していると思います。友人や家族であったりではないでしょうか?ここで注目すべきは「死」を迎える形には多くの違いがあるということです。例えば、病気や事故による「死」、事件などに巻き込まれての「死」、年齢を全うしての寿命による「死」、また悲しい自分自身による「自死」、そして犯罪を犯しての刑罰としての「死」(死刑)など大まかな人間が亡くなる形としてはこのようなものがあると思います。では今朝「復活」をされた「イエス様」はどのような「死」を迎えたのでしょう。お気づきですか。このどれにも当てはまらないのです。病気や怪我でもなく、事件に巻き込まれたわけでもなく、寿命でもなく、自死でもない、犯罪を犯したわけでもない・・・・何故死ななければならなかったのか。

 人が亡くなるという時、私たちは必ずその理由や原因を欲します。残された者が「死」に意味づけをしなくては心が耐えられないからです。しかし、「イエス様」の「死」は意味づけられません。弟子たちですら、何故?という具合です。このわたしたちでは分からない「イエス様」の「死」の意味を理解しその手に理由を持っていた方、それこそが「神様」なのです。「神様」しか「イエス様」の「死」に理由や意味づけをすることは出来ません。但し、「イエス様」は弟子たちに、自身は捕えられ殺されるということは語っておりました。何故捕らえられるのかは弟子たちは理解できませんでしたが。y余談でした。

 ここで非常に大切な事を思い出さなければなりません。「イエス様」は生前どのように「生きていたのか」ということです。彼は、生き方全てを「神様」のご計画の中歩まれていたという事です。彼は常にお祈りをし、自らが何を語り、癒しを行う力がどこから来ているのか、それを、多くの人たちの前で表されました。これは、「神様」が本当に存在していることを知らしめるためであり、私たちが、心から「神様」を信じ、平安を得、「救われる」為にです。

 

 つまり、「イエス様」の死は「神様の計画」であり人間の何故「死」んだのかという価値判断を超えています。この「死」は私たちを「救う」ために、彼が生まれてからこの十字架に架かる日までが全て神様の人の罪を贖うという大きな役目をもった「神様」の計画だったのです。先に述べた人間の「死因」に当てはまらないのは、「イエス様」の「死」は神様のご計画であったからです。分かりにくいかもしれませんので、例えば、~が死んだとお話を聞くと、私たちは原因はと直ぐに返し、「死因」を知る事が出来ます。しかし、「イエス様」の死因はと聞くと、十字架の架けられての釘による失血死、または痛みによるショック死、医療的な原因解明で説明しようとするとこうなりますが、根本何故死ななければならなかったのかという事は理解されにくいのです。

そして、何故死ななければならなかったのかを形もって証明した日が「イースター」なのです。死んで「復活」されるという神様のご計画が私たちに「死」という人間の超えられない誰にも訪れる事象からの解放を示しているのです。

 

 少し、時代を遡ります。聖書には旧約聖書という文書があります。人類の祖先は「アダム」「エバ」とされています。彼らは、エデンの園という楽園で何不自由なく生活をしていました。彼らには「人間」であるという自覚はあるものの、「人間」の持つ「知識」を持ってはいませんでした。何が言いたいかというと、自らが裸であるという事に羞恥心などなく、悪い事には全く縁のない存在だったのです。しかし、有名なお話ですが、蛇に騙され、「善悪の知識の実」を食べ(神様に絶対食べてはならないと言われていた実)人が持つ羞恥心を理解してしまいます。ここから、人間は神様から男は生きる為に「労働」の荷を課せられ、女は「生みの苦しみ」を与えられ、「人間」というアイデンティティの中生きていく事になるのです。そして、お話は戻りますが、人間にこの時に初めて与えられたのが「死」という概念(現象)なのです。人は必ず歳をとり亡くなります。または自然環境や社会情勢において理不尽な事が原因で亡くなることもあるそのような存在となりました。

 

「死」ぬということがここまでで、かなり暗いネガティブな物のように思われます。確かに人間が社会の中から急にいなくなることは悲しいですし、寂しい物です。

では、「イエス様」がいなくなった三日間に焦点を合わせて「死後」の数日をみてみましょう。弟子たちはお墓を作り埋葬しました。亡くなった方への自然な対応です。しかし・・・・ここからが今朝イースターのテーマです。「人」の「死」という概念が覆される瞬間なのです。5節『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか』6節『あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい』7節『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』

 

 人間が人間を殺害することを殺人と言いますね。私たちは「イエス様」を十字架につけたのです。いや、十字架につけたのはユダヤ人でしょ・・私たちは関係ないでしょう。そのような言葉が聞こえてきそうです。では、これならどうでしょう。「神様」のご計画は何者に対して約束されたものであったのでしょう。それは、全人類にです。全ての人が罪の苦しみから、「イエス様」を十字架につけ殺すという行為を「神様」はしっていてなおそれが実行されてから「復活」によってすべての人が許されるという計画が始まっていたのです。私たちは全員「罪」を持つ人であります。しかし、この十字架にかけられるという神様のご計画から人は「救われる」存在としてあり方が変えられます。

 

しかし、「復活」するというお話を事前にされていたにも関わらず、弟子たちは「復活」を信じること当初できません。11節『使徒たちは、この話がたわ言のように思えたので婦人たちを信じなかった』とあります。私たちが自身の罪が許されているのだよという事を認識することが如何に難しいのかが分かります。罪人であったということも理解できないでしょう。

これは、なんの罪も犯していない「イエス様」を人間が殺したという「罪」の自覚から始まり、そしてその罪は「復活」によって全て許されたのだよということなのです。

 

今日のこの「イースター」は人間の罪(死)が拭い去られ、私たち人が新たにされるということを「イエス様」の「復活」によって約束されたとても大切な日なのです。感謝しましょう。

                            祈ります。

 

 

「十字架への道」ルカによる福音書23:32-49(P158)230402 阿久根伝道所牧師

竹花牧人

弱く見えて、実は本物の強さを持っています。まさに「イエス様」はその姿の象徴です。十字架に架かり処刑されるというあまりに人としては、残酷な死を遂げられます。その十字架の右側、左側、両脇に犯罪者が同時に十字架に架かっており、人々はこの時「イエス様」は犯罪者と同じという狂気じみた感情に支配されていました。「イエス様」は生前どのように生きられていたのでしょう。各地を歩き神様の「愛」を述べ伝えておりました。そのお話は、金持ちや権力者、貧困者や障碍者を持っている人たちにまで、全ての垣根を越えてその人々の心に衝撃を与え、人がどんな環境に至っても「神様」だけは決して見捨てない、その絶対の優しさと愛に「あなたたちは守られています」と語っていたのです。何故、「愛する」を語る「イエス様」は殺されなければならなかったのでしょう?今朝の聖書個所の中に、この人間性が狂っている状況の描写が記されています。35節『・・・議員たちもあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら自分を救うがよい』36節『兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して』37節、言った『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ』・・・思いだしてみて下さい。「イエス様」は一度でも自分が「メシア」であると語ったでしょうか。自身が「王」であると述べたでしょうか。全て、人間の期待という幻想が行き過ぎた「救世主像」を作って行ったのです。彼らが「イエス様」を侮辱している行為は人間「イエス」を「結局何もなしえない人」、口を悪くすれば、民衆を騙した詐欺師とでも言うのでしょう。勝手に期待し勝手に絶望した・・・まさに人間の強烈な自己中心的な心を表しています。しかし、私たちは、この「イエス様」が「メシア」であることを知っていますね。たとえ「イエス様」ご自身が語られなかったとしても、彼が我々と同じく「人としての死」を迎えるという姿を通して、神様の御力が働く証人とされていることにです。人間とは有限の生き物です。「死」を迎えない「人間」は存在しません。だからこそ、その縛りを打ち崩した「復活」が途方もなく大きな意味を持つのです。

 

イエス様はお話をされる時よくたとえ話をされました。これは分かりやすいようにお話をするためではありません。その逆です。理解できないように語るのです。しかし、「イエス様」は弟子たちにはきちんと説明してくださいます。神様の存在を身近に感じる弟子たちに「イエス様」は自身のこの「死」と「復活」を民衆が理解できなくても、弟子たちにはこれが真実であることを悟り語らせる為に十字架の「死」と「復活」を信じる存在(マイノリティ)と狂った思考の民衆(マジョリティ)に初めから分けていたのかもしれません。だからこそ、「イエス様」のお話は初めから全てに知れ渡ったのではなく、弟子たちを通して、彼らが体験した「奇跡」を信じるということを主体的に行うような「信仰」を持つ準備期間を人間は持たされているのです。

 

では、一見弱そうに見えて、実はとても強い・・・・・そんな人を少し考えてみましょう。先に述べた「信仰」を持つ準備期間にいる我々がなるほど・・少し考えさせられるお話です。私は漫画が好きです。好きな漫画に「ヘルシング」という本があります。キリスト的ではないと反感を受けるかもしれません。気にしません。その本に登場する「ペンウッド」という人物についてです。この本は架空の英国(イギリス)を舞台にローマ・カトリックと英国国教会(プロテスタント)、さらに、ナチスの残党が争うというものです。そのお話の中で登場する「ペンウッド」という人物は、大変臆病で小心者でして自身は英国の防衛の将軍に家柄のみでのぼり、自身は何故自分がこのような大役を任されているのか、常にびくびくしながら三つ巴の戦争に参加します。しかし、お話はここから、かれは、臆病者ではあっても卑怯者ではなかったのです。明らかな敗北が目の前にやってきたとき、多くの人間が寝返るなどの裏切りをする中、彼は最後自身の与えられた英国の防衛に命をかけ爆弾により吹き飛びます。この「ペンウッド」さんの本質を部下たちや仲間はしっており、無能であるとされても大変信頼されていました。最後の最後まで、国を守る姿勢には臆病を超え、実直な男気を非常に強く感じいつ読んでも大変勇気をもらえる一幕です。「ペンウッド」さんはプロテスタント(英国国教会)信者であり、自身の常に正直にいきるという姿勢は彼の「信仰」そのものを表しているよう見えます。

 

何が言いたいかというと。本質を見抜きなさいということです。弱さの中の強さであったり、失敗の中の成功であったり、ダメなところをばかりを重箱の隅をつつくように嫌味や攻撃をするような人は自分自身も他人をも同時にダメにします。期待値ばかり大きくして幻想を抱き、それが事実ではなかった・・・・・人間性を見抜けない弱さによる他人への攻撃は今日の聖書個所の議員や兵士たちと全く一緒です。

 

どうして本質が見えないのか・・・・?「イエス様」のお話は理解することが出来ないように、と、いうスタート地点から我々自身が「信仰」の道の中本物の「神様」に出会うようにするためです。それでも、自身の「心眼」が曇り、誤った本質理解に苦しむのが人間です。よく想像してみましょう。「常識」と「非常識」の違いは?「健常者」と「障碍者」の違いは?「男性」と「女性」の違いは?・・・・これは、百人いたら99人は同じ答えを言うでしょう。では、残りの1人が語る言葉は、恐らく、私も同じなのですが「100人いたら100通りの違いがある」常識なんてものは、多数派が勝手に構築した差別構造です・・と。しかし、人間の価値観や世界観というものはとても狭く、自身の感覚で判断してしまうのは普通です。普通という言葉が私は大嫌いですので、人間的とでも言いましょう。ではどうやってこの狭い判断基準から無限の「神様」の御心からくる違いの許容を得る事ができるのでしょう。人の判断では弱そうに見えて実はとても「実直」であることを何十年と親交がある友人同士でも見つける事が出来ない場合があるほど、難しいのです。つまり、人同士でも本質を見抜けないのだから、神様の御心に気づくことはもっと難しいということです。

 

ではどうすればいいのか。それは、この世界の全ては「神様」によって見させていただいているという自覚が必要なのです。「イエス様」を笑い侮辱した、議員や兵士たちは、人の目を持って舞違いなく彼は、「嘘つき」であると判断しました。しかし、お話は初めに戻りますが、両脇の犯罪者の言葉を聞いて下さい。片方は「我々を救え」とのべました。もう片方は「イエス様」がなんの罪も犯していないことを見抜き、私をいつか呼んで下さいと懺悔します。大勢の人達がいる中、「イエス様」の本質を見抜いていたのは、この片方の犯罪者だけだったのです。罪に悔いる中、許された瞬間でした。わたしたちはこの瞬間を知りえるために生かされているのです。本質を見つけさせて頂き、人間の感覚や感情を超える「神様」の御心に触れ変えられる、すなわちそれが、「イエス様」が歩まれた「十字架への道」なのです。この「十字架の死」がなければ私たち永久に愚かな生き物でした。

 

神様の御心に私たちが気づかされ、変えられますように。 

                                          祈ります。

 

「十字架の勝利」ルカによる福音書20919P149230326阿久根伝道所牧師

                                  竹花牧人

 今朝の聖書箇所のお話しは、「自己利益の追求」の行き過ぎた結果とそこに対する神様の反応を示しています。少し、聖書を見ていきましょう。主人が農夫達に土地を貸し耕してもらい管理をお願いしていたとあります。ここまでならよくある土地管理代行のようなシステムです。しかし、農夫はあくまで、管理を依頼されていただけで、その土地の所有者ではありません。そこでの収穫物は土地の主人に渡さなければなりません。つまり、土地の収穫物は主人の物で、農夫には本来主人の采配によって言わば管理料などでの賃金が支払われるのです。では、なぜ、主人が収穫物を得る為に自身の僕をその土地に送ったさい、今朝のような悲惨な惨劇が起こったのでしょう。まず一つ考えられる事は、農夫達と主人が物理的にかなり遠距離にあり、農夫たちに「自己利益追求」のあさましい行為を処罰することが出来なかったということです。主人自身が自身の土地に帰り直接収穫物を獲得すればよかったと思われますが、遠かったと考えると、それが農夫達の行き過ぎた行動に繋がったと見ることができます。農夫達は「やりたいようにやっても、どうせ主人は遠くて来やしない」といった具合です。さらに、もう一つ考えられる事は、主人と農夫との間に貸した者、借りた者という関係性が薄かったということです。両者の関係性のパワーバランスがそもそも主従関係をなしていなかったということです。これはよくあるお話しです。例えば、コンビニエンスストアの店長がアルバイトを雇ったとします。その店には人出が足りず猫の手も借りたいほどでした。どんなに不真面目でも、やる気がなくても、反抗的でもクビにすることが出来ません。アルバイトは何をやってもクビにされないと思いやりたい放題をしてお店を混乱させます。つまり店長とアルバイトの関係性に主従関係が存在していないということです。このような状況はよくあるお話しです。では何故このようなお話しが聖書に記されているのでしょう。今朝のお話しのメインはここからです。

 

 今朝の聖書箇所では、人間の「自己利益追求」の欲に対する警告とその欲がどんな人間にも陥りやすい罠であるということを述べるのです。この欲は極悪で、自分自身が何をやっても裁かれないと思うと、「殺人」までも平気で行います。事実、今朝では三人の僕と主人の息子が痛めつけられ殺されました。仮に、この主人が「私たち」の親戚や友人、大切な仲間であったらどうでしょう。こんな仕打ちを行った農夫達を許す事が出来るでしょうか?恐らく感情が先行し、同じ苦しみを与えてやろうと気が付けば、殴り飛ばしているかもしれません。・・・・・聖書は「そんなことがあってはなりません」と綴っていますが、確かに、目には目を、歯には歯をというような行いは愚かです。しかし、それでは、殺された僕や息子は一体何のために命や痛みを伴ったのでしょう。はっきりと記されています。17節『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』今回のような一見一方的な惨劇は「神様」からしてみれば、そのなくなった者たちのが、後に続く家の建造のベースになるというのです。つまり、無意味な「死」などはなく、どんなに理不尽でも、「神様」の選ばれた命はのちにきちんと評価され、今を生きている基本となり私たちが同じように何かしらの復讐心に駆り立てられた時、亡くなった命を嘆くのではなく、それらは「神様」から人間の「生」の土台となってくださるということに気づきなさいというのです。そして亡くなり「隅の親石」となったものは、「自己利益追求」の人間がいかに暴走しても、同じく亡くなった時必ず、神様の意思により用いられた「石」には勝つことはできないのです。

 

 主イエスがどのようにして殺されたのか?十字架という重い極刑の道具を自身で運ばされ、ゴルゴダの丘を登らされ、最後は侮蔑され、処刑されました。そのことを、「生きている」間に、今朝のお話しをされるのです。「人の子は」殺されるが、「隅の親石」となる。まさに、十字架の「死」など恐れるものではなく、「神様」に用いられることを信じることは、その「死」を打ち破るのです。

 

 そして、「隅の親石」となるということは、「死」に勝つという抽象てきな意味だけでなく、「イエス様」自身が「復活」によって具体的な事実として私たちに「死」の滅亡を示されます。そのような具体的な「死」を超える業を私たちは今朝から知りえる事が出来ました。レントに入っております。イエス様が苦しまれた日々を思い起こします。

 

 お話しを変えます。いじめ、無視、過小評価、そして世界の全てからの否定、心が壊れるという事が人間には起こりえるということをご存じでしょうか。人間は否定され続けると本来持っているであろう能力を活用出来ないという事があります。それは、自らの行動に疑問を持ってしまうからです。私の発言は「私」がしたものであろうか?今歩いているのは自分の「足」か?ごはんを食べているのは一体誰?こんな感覚は定型発達者や心身ともに健康に成長した人には無縁です。しかし、世の中には、この自身への疑問により、社会に適応できなくなり、疎外され、馬鹿にされ、誰からも認められないという状況に陥る人が存在

するのです。理解されないことは十分に把握していますが、一番腹が立つのは分かっている風を装い共感していますと近づいてくる人間です。正直、何をいっているのか分らないでしょう。しかし、わたしたちは、目には見えず、耳では聞こえない存在を信じています。同じ人間の苦しみを同じように苦しむという共感ではなく、共に同じ苦しみを背負うということを何故しないのでしょう。私は人に本気で殴られ意識が飛んだ事があります。その痛みを今でもはっきり覚えています。だからどんなに腹が立っても手を出したりしません。痛いからです。この感覚はどんなに高名な学者のお話しを聞いたり、研修を受けても決して得ることはできない感覚です。この痛みを背負うと言って下さったのが「イエス様」です。共感ではなく、背負って下さるのです。下手をしたら、自分自身より、大きな痛みをも担いでくれるのです。それこそが、まさに、十字架に架かられたということです。私たち人が、「殺人者」という最悪の痛みを「イエス様」はお一人で全ての重荷を担いでくれました。そして、それは、何も「殺人者」だけではなく、「差別者」「いじめ人間」「パワハラ人間」・・・きりがない人間が痛みを持つことを全て許してくださるように「神様」にとりなして下さったのが「イエス様」です。

 

 どうか私たちがこの十字架の勝利を信じることが出来る心の成長を得られますように。・・・・

 

 「自己利益追求」はまさに、人を陥れる罪の罠です。しかしそこに落ちても、その罪のほうが押しつぶされると今朝述べられています。神様が私たちを心から用いて下さることの証明です。信じましょう。      祈ります。

 

 

「主の変容」 ルカによる福音書92836P123230319阿久根伝道所牧師竹花牧人

 今朝の一番お伝えしたことは、神様の選びにより尊ばれる方が、その姿の変化とモーセエリヤという神様から選ばれた預言者、指導者との語らいをもって(選びの強調)「イエス様」が神様の選ばれた方であるということを示し、その「イエス様」の存在そのものが神様の意識(言葉)であり、聞き従う事が、私たちにとって救いにあずかる方法であるという事を示しているのです。

 

 私は子供のころ、不思議なお話を聞いたことがあります。私の母のお話です。母は私と似ていて体の線は細いのですが、心身とものに頑丈な人です。その母が小さい時、腹痛だったか高熱だったか少し曖昧なのですが、病に苦しんだ事があるそうです。母は父(祖父)と祖父(曾祖父)が牧師の家計に生まれたのですが、「神様」にその苦しみの中で出会ったというのです。はっきりと「神様」の声を聞いたと私は話されたのを覚えています。病の中出会ったというお話は今の私の心に非常に強く響いています。苦しさや意識の混濁で幻覚や幻聴を見るという事はよくありますが、自らの心に語られた言葉が「神様」からのものだと信じる事が出来るというのは、並大抵の「信仰」ではありません。「大丈夫・・・」だったか、安心を下さったその言葉に癒されたそうです。このような不思議な体験を全てのクリスチャンが経験しているわけではありません。救いの言葉を「聖書」から得る事がオーソドックスでしょう。そして、聖書の表す「主イエス」が何者かという事、「癒し」を行う方、「神様の子」今朝の聖書個所はそう記しておりますが、私たちは「聖書」を読むという視覚的手段によって、「イエス様」が「神様」からの選びによって、モーセやエリヤと同じく、神様からの「救い」と「癒し」そして人々を「救い」に導く者として体験が無くとも、知識として得る事が出来ます。しかし、「信仰」を考える時、私の母のような「心身の体験」が「神様」への絶対的な信頼へむずびつくという事は大いにあると思います。

 

 しかし、人間の不信仰の深さ、これはどの時代の人々も同じです。先ほど、「神様」との出会いを持って、信仰の深さを得るというニュアンスのお話をしましたが、その体験を持っても信じきれないのが人間なのです。「神様」と出会ったと感じる瞬間にそこにサタンが必ず入り込むのです。信仰に疑いを生じさせるのです。例えば、祈りの中癒されたと実感したものの、時間が経つにつれて、その癒しは治るべくして治った、別に「神様」など関係なかった、「祈り」という時間は無駄に時間を費やしていただけだ・・・という具合です。この感覚は必ず起こります。目に見えて、耳で聞こえて、肌で感じて、匂いで見つけて、肉体で癒しを感じても、それを、必ず、自身の都合のいいように解釈し、「信仰」を踏みつけにするのです。聞き従うことをいつしか忘れ、最終的には「自分」が一番であり、感謝の心を無くしてしまうのです。聖書にはこのような言葉があります。「癒された人々の中、感謝を伝えたのはたった一人であった」という言葉です。

 

 聖書にマリアとマルタのお話があります。今朝の聖書個所ではありませんが、少しお話をします。「イエス様」を客人としてマリアとマルタは家にお迎えしました。マルタ、美味しい食事をふるまおうと大忙しです。しかし、マリアは手伝いなどをせずお客人である「イエス様」のお話に聞き入っています。マルタはだんだん、この何もしない態度に怒り持ち始め「イエス様」にマリアに手伝うように仰って下さいと懇願します。しかし、「イエス様」はもてなしよりも遥かに大切なことをマリアはしているのだとお話をしました。・・・何が言いたいかというと、誰かに何かしてあげよう、大切な人を守ろう、こういった感情には必ず、行った自分自身に、事故満足感が入っているのです。私はこんなにあなたに対して尽くしているのです。といった具合です。何の損得勘定抜きに純粋に心を「神様」の方へ向けるというのは本当に難しい事なのです。「イエス様」の声に聴き従うことが如何に人には難しいことなのかわかると思います。自分が大きな不利益を伴っても、それが神様の「声」を聴くことであるなら、「不利益を喜んで被る必要があるのです」

 

 母のお話に戻ります。ここからは私の想像ですが、痛み苦しみが神様からの「母」に対する「信仰」への問、「私(神様)を信じこの理不尽な痛みが救いに繋がると信じますか・・・」という物であったのか?大変母に失礼ですが気になりました。

 

 不思議な出来事を通して、「神様」と対話すること、尊敬や畏怖の念を抱くこと、これは、自然なことです。人間は混乱するほど興奮するでしょう。今朝の聖書個所33節『・・自分でも何を言っているのか、分からなかったからである』とペテロの描写があります。痛みや苦しみ、又は、意味不明な出来事、理不尽な扱い、全て、繋がる事はそれらがどんな意味をもっているのか。ということです。不幸で死にたいであったり、幸せそうな人を見て嫉妬したり、人間は自分が幸福感に満たされていないと、あらゆる出来事を不幸せであるという方向にもっていきます。最終的に、神様何故あなたは、私を造ったのですかとまでいくでしょう。しかし、こんなにも弱く意地汚い人間が、前を向いて歩けるように、「イエス様」をこの地上に、私たちに送られたのです。35節『すると「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた』つまり、私たちのために、神様は選びをもって「イエス様」を地上に送って下さったのです。

 

 今朝「イエス様」の最後を語っておられたとお話があります。31節『二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた』つまり、私たちのために、十字架に架かり、死に、復活されるということです。これこそ、私たちのために「イエス様」がこの世界にやってこられた証です。「イエス様」だけが、この世界の理不尽に対し憎しみを持たず、ただ「神様」のお言葉のみを忠実に人の子として生きられた存在です。この人にとって心からの感謝しかない行いをされた「イエス様」のことを信じないという不信仰があるのでしょうか。私たち人間が何のために生きていいるのか。ただ惰性によって生命体としてここに存在している・・・ということでしょうか?神様は私たちに、惰性に生きる事を止めさせ、神様の言葉を聞き純粋な心を持つ事を勧めました。つまり、私たちの誰でもない神様の選びによって誕生された「イエス様」によって、救いに導かれているのです。この出会いを信じる事が出来ないのは、痛みや苦しみを又は幸せを全て自らの行いの結果として考えてしまっていているからです。

 

「イエス様」との出会いこそ「救い」であるということに気づきましょう。祈ります。

「受難の予告」ルカによる福音書9:18-27(P122) 230312 

阿久根伝道所・牧師・竹花牧人

 受難の予告とは、「イエス様」が殺されるという予告でしょう。しかし、ただ殺されるというお話ではなく、「イエス様」は三日目に「復活」されるというのです。この不思議で理解しがたいお話を「イエス様」は弟子たちに伝えました。さらに、その「復活」すると言われた「イエス様」を民はどう形容しているのか、また、弟子たちはどのようにおもっているのか、「イエス様」は自身が「神の子」であるということを秘密にしなさいという反面、弟子たちや、民衆が「神の子」の奇跡等をただの不思議な業ではなく、神様からのお力であるということをきちん理解しているのか見ていました。19節に『洗礼者ヨハネ』だ『エリヤ』だ『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う描写がありますが、まさに、「イエス様」が何ものであるのか、伝道の旅の中「信仰」の根づきの深さを試してのお言葉でした。それは、「弟子たち」にもおよび、「イエス様」と長く共におり、神様の業を見ておられた彼らが、「イエス様」をどの様に認識しているのか、その信仰の度合いによりイエス様自身が語った「受難の予告」がきちんと理解されうるのです。予告の前提は造語ですが「あなたは、私(イエス様)を信じていますか?」という言葉が隠されていることに気が付きます。

 殺されるというのは、「弟子たちに」とって究極的な痛みです。20節『神からのメシアです』とペテロは述べています。「メシア」が殺されるというあまりにショッキングな出来事これは、旧約聖書からの預言の成就が行われることですが、衝撃を受けながら弟子たちは神様の行為に躓きつつそこから立ち直り「真に」「イエス様」を本当に「メシア」であったと確認し、後のキリスト教の誕生に繋がります。

 この個所で一番意識すべきことは、「イエス様」が人の信仰を見ておられ、「死」による躓きから、「復活」による「立ち上がり」を行ってくださるということです。

 余談ですが・・・21節『イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて・・・』とありますが、これは「メシアの秘密」という神学的な論争の大きなテーマです。「イエス様」を「メシア」として認識していても、「神様の子」が人間によって殺されるという一大事件は民衆にとって信じていた物が崩れ去るほどの衝撃なのです。そのため、「イエス様」は自身の「奇跡的な」業を「秘密」にされ、社会に対して、人々の心が挫けないように配慮されたのです。これは、民が待ち望んでいた姿と「イエス様」の姿に大きな乖離があったからです。しかし、「イエス様」は社会的な属性が絶対化されることに危惧を示し、あくまで、「良いお話」をするメッセンジャーという立ち位置で、発言に反感を持たれますが、「メシア」として祭り上げているのは「民」であるという立場を貫きました。今朝の聖書個所で最も伝えたいことは「イエス様」がお話をした、造語ですが

 

「私について来たいものは、神様のまえで全てをさらけ出し裸になりなさいということです」

何も持たなければ、一から必要な物を吸収していくことが出来ます。神様の教えを素直に心に入れ続けることが出来るのです。

 

お話しは変わりますが、聖書には「天の国は子供たちのためにある」という言葉が記されています。何故子供?なのでしょう。これから育つ世界の基軸となる存在だからでしょうか。恐らく、子供は純粋に「神様」の言葉を聞くことが出来るからです。何らかの損得で動くのではなく、本当に必要なことを、疑問を持ちながらも、「神様」と対話ができるのです。今朝、「エリヤ」だとか、民は叫んでいましたが、「子供に」「エリヤ」という存在が何者であるのかは知りえないでしょう。しかし、「イエス様」が民の心の支えであるという事は確信をもっていたでしょう。

 

少しお話が逸れましたが、「イエス様」は自身の「死」を決してネガティブに捉えないように気をつけなさいとお話します。「死」から三日目に復活するという人間の「死」を超える行為を予告され、これはあなたがたが言われる「メシア」が神様によって罪への勝利を形をもって表されたものだと言われます。自分自身に囚われる人は自らを滅ぼすともあります。「死」は滅びであり、それは私たち人間には逃れることが出来ないものですが・・・「死」という概念は聖書に書かれているように「復活」よって「救い」へと形を変えています。

 

最後に、受難予告の中、私たちは一人一人が持つ「死」のイメージが変化しては来ないでしょうか?肉体の滅び、心の崩壊、社会的な死、孤独死、いじめなどによる環境の中の死、イエス様はこれらすべてに共通するものを語っています。22節『・・・・自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい・・』「イエス様」は「死」を担いで自身の「罪」と直面するその覚悟が私たちが「命」を得るということに結びつくと述べるのです』。

具体的に述べると、自分の十字架とは・・・「そもそもが極刑の道具であった。罪を裁く道具。つまり、罪を象徴する物。その人間一人ひとりが持つ重荷を背負いなさいと述べているのです」その重さを担ぐ時、神様が共にいてくださります。ここだけを読むと「罪」を自身で背負えと読めますが、これは、人自身が自らを省みなさいということを表しているのです。わたしたちの犯した罪と直面してなお「生かされる」ということ、それが、「罪」からの解放、「死」からの「復活」なのです。

 

今朝は「受難の予告」というタイトルです。初めに「神様」を心から信じていますか?という問いを立てましたが、「イエス様」とは「・・・・という者だ」という形容ではけっして表現出来ません。それは、私たち一人ひとりによって信仰の中の「イエス様」の「救い」は違うからです。「死」もまた様々に違う形です。それでも、「信じている」という言葉は「イエス様」ですら苦しみもがいたということから、心に畏怖の念を持たせ、神様に対して、私たち人に代わり恐ろしい「死」に直面してくださり、私たちを救いへと向かわせてくださったと決着させます。レントに入り、「イエス様」が語った「受難の予告」をどのように聞く必要があるのか、それが非常に大切にななってくるのです。 祈ります

 

「悪と戦うキリスト」ルカによる福音書111426P128230305 阿久根伝道所

                              牧師 竹花牧人

 聖書には「悪をもって悪を打つことは出来ない」という言葉があります。今朝の個所はまさに聖書が語る信仰の戦いを明確に記しています。「イエス様」が悪霊を追い出す行為を、神様の栄光が現れていると認識するのか、逆に悪魔ベルゼブルの力が働いているのか?信仰を試されています。これは、一重に判断が難しい問題ですが、「イエス様」は自身を通して、悪魔ベルゼブルと神様の栄光の違いを示されました。18節『あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめをすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか』悪が栄ていた都市を例に挙げれば、旧約聖書に登場するソドムとゴモラの町が有名です。この町の人々は全ての裁きの権限を自身がもっていると勘違いをし、気に入らない人がいれば殺します。それが正当化されているのです。しかし、町の人の人間関係は邪悪により恐らく疑心暗鬼になっており、都市としての機能はかなり低く、モラルなど無かったでしょう。この町の最後は神様によって滅びます。つまり、悪によって悪を正当化することは出来ないのです。神様の目に正しいと写ることだけが、私たちが意識に昇らせる必要のある事なのです。

ならば、今朝の「イエス様」の悪例追い出しがベルゼブルの力なのか、神様の栄光の現れなのか見えてくると思います。悪を以て悪を追い出すことが出来ないと語りました。つまり、悪以外の力が働いているのです。悪と対をなす存在とは何か。「神様」しかおられません。よって人々が不思議に思う様々な超常的な「奇跡」と言われる出来事は「神様」の栄光が示されているものなのです。20節『しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ』そして、私たち人に誰かを裁く権限も資格もないことを語ります。私たちには人を裁くどころか、常に神様によって裁かれているのです。邪悪を正義として正当化しょうとする存在は人間です。その人間が、「神様」の正しい力に触れた時自身の愚かさが露呈します。つまり、悪を持っているということが既に「神様」によって裁かれているのです。この裁きは人間の保身や保護にも大きな影響を与えます。「神様」が絶対的な守護者であることを忘れると、ただの「人」としてすべての物を自身で守らねばなりません。そうなると、自分自身より強い人が襲ってくるとたちまち全て奪われてしまいます。「イエス様」はお話します・・・・23節『わたしに味方しない者はわたしに敵対しわたしと一緒に集めない者は散らしている』つまり、「神様」への信仰が蔑ろにされたとき、悪魔が心を支配している時、私たちはいついかなる時も不安定で危険な状態に陥っているのです。

つまり、悪と戦うという事は、人間の邪な心からくる、自己中心的な思考による裁きを「この瞬間」にもやめなさいという「イエス様」の言葉に聞く耳を持ち自らと戦うということです。

 

人はこの「悪と戦う」ということが何のことなのか知ることすら出来ていない場合があります。その「知らない」という事も、自らの思考に囚われている一つの証です。私たちは知らないところで大きな過ちをおこなっているのです。その最たるものは何でしょう?それは、無関係のように見える「イエス様」を十字架に昇らせはりつけにした行為です。聖書はユダヤの宗教の正典でしょう。私たちは民族も国も違うから関係ないです・・・・そんな言葉が聞こえてきそうです。確かに私たち人がいきなり「殺人」の容疑者にされ、「罪」を犯したから償えなどと言われても「言いがかりだ」というでしょう。しかし、その「言いがかり」とも見える殺人容疑の罪を私たち人から変わって受けて下さった方が「イエス様」なのです。民族や国ではなく、「人」としての愚かな「殺人」というとんでもない行いを「神様」は極刑をもって人々を裁くのではなく、「イエス様」の「人」を赦して欲しいという願いにより救われたのです。これは「愛」です。人が人を勝手な自己判断で裁く行いを「イエス様」が同じ人として全く逆の赦しをこう行動で人間を救われたのです。

 

何故悪霊を追い出すのが悪魔ベルゼブルではなく、神様への信仰であるのか?それの答えがこの「イエス様」の行動で分かると思います。「悪」を持つ事は「罪」を持ち苦しむことです。その罪は簡単には消えません。自身との数えきれない回数を自問自答することでも見つからないこともあります。これが、知る事が出来ない難しさです。「悪をもって悪を倒すことは出来ない」というシンプルな答えを人は見つけられないのです。「知る」ことで自らの「罪」と対峙します。この対峙は人間だけの力では太刀打ち出来ず、苦しみもがき最後の最後で「神様」への遜りによって出会います。そして「神様」だけが悪霊を追い出すことが出来る事を知り、私たちは救われるのです。

 

お話を変えます。正しい行為がもみ消され、「悪」がのさばる現象は何も国単位のことだけではありません。昔「ザ・ハリケーン」という映画を見ました。実話です。内容は黒人のボクシング世界チャンピオンが小さいころから地元警察に目を付けられ無実でありながら終身刑にて独房におよそ半世紀収監され、彼が書いた手記が刑務所の外に出てそれを読んだ外部の人間が手記こそが真実と信じ、彼の無実を証明しようと動き出し、最後は地元の法廷を離れ州の法廷へと直談判をし、これを機に無実を勝ち取るというものです。冤罪をもたらした警察関係者、検察関係者は全てこの無実の事件を有罪にし、昇進をしたり何らかのポストに就いていました。つまり、悪が正義を覆い自身の保身や欲望の完遂を目論んだ悪例です。しかし、最後はこの邪悪な行為が覆りました。悪は悪によってさらに巨悪になります。そして本当の真実が握りつぶされていきます。しかし、逆に悪が悪によって真実へと到達するこがないことも示しています(神様の前で正しい行いによってのみ)。今朝の悪の内紛にて国は倒れると言われている内容は、まさに真理であります。正しいという事が、「神様」の前ではっきりと述べられるのか、非常に大切な事です。「神様」の前で正しいと写る行動を取るには、「イエス様」のお話された邪な者にはさらに邪な者が付くという言葉から分かるように、自分自身では「知りえない」無自覚ともいえる「悪」を「神様」の声から聞き取りなさいということなのです。「罪」が「罪」により、私たちがどんどん「神様」から遠のく事を「イエス様」は心配し気を配ってくださっています。つまり、人間の巨悪に飲み込まれ、倒れる前に巨悪を打ち倒す存在が「神様」以外にはいないという事に気づきなさいと語られ行動をもって「イエス様」は何度も何度も私たちに手を差し出してくださっているのです。

 

「悪と戦うキリスト」・・・「悪」に人は気づかなくても、「知る」事ができなくて苦しんでも、悪が必ず滅ぶことを「イエス様」は強くお話されます。この「イエス様」の言葉を心に刻んで信仰の迷路の中から脱出しましょう。     祈ります。

 

 

「奇跡を行うキリスト」ルカによる福音書91017P121230219

                          阿久根伝道所 牧師 竹花牧人

 今朝「奇跡」としかおもえない業が聖書において語られています。五千人の給食というたいへん有名な聖書個所です。「イエス様」が癒しを行ったのち日が暮れ始めて食事時になったときのことです。「弟子たち」に「イエス様」から群衆に食事を提供しなさいと指示が入りました。弟子たちは困惑します。それもそのはず、群衆は男性が五千人いたというのです。男とだけ記されている点は男性中心の時代の文書だからでしょう。女性や子供もいたはずです。その人数は五千人をはるかに超えていたと予想できます。お話を戻しますが、この五千人という数は大変な人数です。数のお話の例ですが、私の中学校は地元の栃木県でも大変人数が多いマンモス中学校でした。その数は一学年8クラス(40人)約1000人です。その五倍・・・学校が5つ分と想像するととても沢山の人だかりが「イエス様」のお話や癒しの業を受けに集まっていたと読めます。その大人数に食事を提供しなさいという指示は弟子たちにとって到底現実的ではなく、ありのままを述べました。13節『「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。』つまり、無理ですという発言なのです。パンが五つしかないのならその1000倍、魚二匹しかないならその2500倍、という途方もない数を用意することなど通常できるはずがないと思います。しかし、聖書はなんと語っているでしょう。17節『すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパン屑を集めると12籠もあった』というのです。物理的な問題が克服され、非現実的な事が起こったのです。その「奇跡」と呼ばれる業を「イエス様」はどのようなお気持ちで行ったのでしょう。16節『イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して群衆に配らせた』とあります。つまり、今あるこの食べ物に心からの感謝を持つ事が「数」という人間の概念を「数」では表せない「信仰」の熱意によって人の思考では考えられない「奇跡」が起きるというのです。奇跡的な業とは決して目や耳で感じ取れるものだけではありません。実際に「奇跡」に気づかなく、その業が行われているということもあります。ただし、はっきり言える事は、「奇跡」は信じる「信仰」、神様への信頼と感謝によって必ず起こるということです。

 

 私は小中高大と人生の半分くらいをバスケットボールというスポーツに費やしました。十代は自分で言うのは恥ずかしいのですが体力・精神力ともに万全で怖いものなどありませんでした。生活のあらゆる局面をバスケットトレーニングに生かすという生活をしておりました。小学校の時は皆で集まって遊ぶのは決まってバスケットボールのリングのある学校の校庭や近所の公園、又はリングのある友人宅です。毎日毎日暗くなるまでバスケットボールをやっていました。中学校では、片道三キロメートル以上の道を毎日重い鞄を背負い走り込みを兼ねて、毎日走って登校しました。時間をはかり、三キロの凡そのタイムを出し、全国のスコアと比較をしていました。あと何分縮めればよいかなどです。走っている姿を当時の中学校の先生に目撃され、「あれだけ走れば早くなるね」と言われたこともあります。実際私は、中学三年生の時、長距離走の陸上部の生徒や体力自慢の野球部やサッカー部、全てを抑えて全学年で一番早い運動選手になりました。体力で、シャトルランというテストがありますが、中学高校と満点以外取ったことがありません。これは、運動をやってこられていない方が聞いてもあまりピンとこないかもしれません。しかし、このような運動の習慣は高校生になっても続きます。今度は片道徒歩二時間の距離を自転車で雨だろうと台風だろうと一時間かけて毎日通いました。高校は栃木では進学校の一つに数えられていまして、運動でとびぬけているという部活は一つもありませんでしたが、何故か、私はこの学校で栃木県の中で勝ち上がれるという思いをずっともっていました。日々の足腰の強化(自転車通学)や昼休み、就寝前の筋力トレーニングなど苦痛に思ったことはなく、それが、形となって表れる時がきたのです。ここまで、「奇跡」は信じる信仰と神様への信頼と感謝と述べてきたことに何の関係があるのかということですが、大きく関係があるのです。そもそも健康でいられたこと、大きな病気を小さい頃以外羅漢せず、自分の肉体強化に迷いなく行う精神力を神様が与えて下さったという「信仰」そして、その日々の積む重ねが、誰もが予想しなかった結果を生みました。高校二年生のインターハイをかけたトーナメントにて勝てば栃木県ベスト8、相手は当時4強を独占していた学校の一つでしたが、その学校を相手に前半リードをし、延長戦の末106105というスコアで勝利したのです。私のバスケットボールの人生で最高の瞬間でした。この瞬間の為にバスケットボールをしていたそう思いました。今でも、高校時代の知り合いには「奇跡」が起きたと語り草になっています。つまり、現実的には考えられない事が起きるというのは、それを信じる「信仰」により必ず結果として現れるということです。「イエス様」は天を仰いで、賛美し祈りを以て手元にあった食べ物を「数」を意識せずお配りになりました。そうです、「勝ち」を意識せず、ただひたすら勝利をもたらして下さるのは、全てを準備してくださった「神様」の御手にあるということです。その瞬間が「神様」のご計画ならば、それは、人間では決して想像することが出来ない現実であっても、「奇跡」として起こるのです。

 

 お話を変えます。最近「精神疾患」というワードや「発達障害」という言葉を耳にする機会が多くなっていると思います。阿久根伝道所でも、以前に「発達障害」の勉強会を行いました。しかし、この人の社会でこれらの病名や診断名がレッテル張りされることで、大きな躓きや、他人からの無理解を感じるということが、私は個人的に存在すると思います。この疾患や発達の問題は、決して目で見える現象だけではありません。話し方や、行動面での動作、考え方なども理解されにくいという問題があります。今朝「イエス様」は集まってきた群衆に何を行っていたのでしょう?治療の必要な人々の「癒し」を行っていたとあります。おそれく、目で見える怪我や病だけではなく、現代風に言えば「心」の病も含まれていたのでしょう。ここで注目して頂きたいことは、「癒し」という「奇跡」が「イエス様」の独断専行にて、一方的に行われていたのではないという事です。つまり、自分は「癒しを」を信じていますという人々の心からの「神様」への信頼と感謝の気持ちがあり、そこで、「神様」のこれこそ一方的な無限の愛を以て「癒し」が行われていたのです。5,000人の給食という「奇跡」的な業が「イエス様」が行われた不思議な試みと捉える前に、そこに、人々の圧倒的な神様への「信頼」があったのです。人々が信じ、それに「神様」が答えて下さる・・・この瞬間に神様の「奇跡」が現れるのです。そしてそれは、人が一人ひとり抱えている問題(心の中と目で見えるもの)全てに現れて下さるということです。

 

 

 わたしたちは「奇跡」を様々な形で持ち望んでいます。「癒し」や「救い」、苦しい現実からの解放。しかし、そこには、人間がただ望むという行為からその大いなる「奇跡」を生む、瞬間を私たちがきちんと待ち望む準備をしているのか、というのが非常に大切になります。「イエス様」が「神様」を信頼していたように、私たちもまた「信じる」という行いを目を開いて持たなければなりません。しかしはっきり言える事は、相互の信頼関係の深さにより、私たちは様々な形として現れる「奇跡」を神様からの物であると意識することができ、人間の自分の力の結果というような傲慢を打ち砕かれるその瞬間に初めて、それが、神様への信頼と感謝によるものだと認識します。結果、「奇跡」は形を変えて私たちに必ず起こります。      祈ります。

 

 「いやすキリスト」ルカによる福音書51226P110) 230212 阿久根伝道所牧師 

竹花牧人

 初めまして。阿久根伝道所牧師の竹花牧人と申します。少し自己紹介を致します。私は曾祖父の代からの4代目の牧師です。地元は栃木県でして、高校卒業後宮城県仙台市の大学に進学し、紆余曲折あり、農村伝道神学校に導かれ、宮城県にて牧師になりました。阿久根伝道所に神様から招かれ現在にいたります。

 

子供の頃、一度生死の境をさ迷った経験があります。幼稚園の時急性肺炎にかかったのです。夜遅く救急で病院に父が連れていってくれた記憶があります。医師の、病院に直ぐに来てくれた事が功を奏したと話しているのをうる覚えですが、記憶しています。それまで、両親がお祈りをしてくれていた・・・父や母は神様が癒して下さると信じていたのでしょう。結果的に病院での処置により命を落とすことはありませんでした。心の中で神様「助けて」という言葉が私にあったと思います。病気の発症から、治癒に至るまで、そこには流れがありました。その流れとは「神様」が病院の選定や医師の選定まで、取り計らってくださったと信じる信仰があってこそ、ベストな病院と医者が見つかったのだという流れです。私が患った大きな病気は今に至るまで、この急性肺炎だけです。小さかったので、信仰を持っていたというより、漠然に「神様」なら助けてくれるという安心感だけを純粋に信じていました。両親も「神様」によって癒されたんだよとお話をしていました。

 今朝の12節に『主よ、御心ならばわたしを清くすることがおできになります』と信仰を告白しています。神様は、信じる心を見ておられ私たちは超常的な癒しを期待するというより、神様を信じる事で、私たちの一番良い癒しを行ってくださるということを期待していると記しています。この重い皮膚病で苦しんでいた人が癒されたのは、「神様」なら必ず癒してくれるという事を「心から」信じていたからです。全ての癒しの采配は「神様」が持っていらっしゃるということです。さらに聖書には「命の采配の決定権は神様が持つ」とも書かれています。御心に適い癒されるというのはまさに、聖書的で信仰の最終形のような驚くべきものですが、私たちは毎日その信仰のありようと格闘し、その度、癒しは「今」ですか、癒しは「何時」ですか、そう祈り神様の返答を待っています。

 

 お話は変わりますが、そもそも「イエス様」は一体何者でしょう。「イエス様」とは、神様の言葉を紡ぎ「癒し」を行い、人々が悔い改めることを願い、「死」を超えて「愛」が勝利するという「神様」のお力を行使することが許された唯一の存在です。24節にこうあります。『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう』人の子とは「イエス様」がマリアとヨセフの子であると同時に聖霊によって生まれた、神様の子という事です。「神様」はこの聖霊に満たされ守られている信仰深い「イエス様」が語る言葉は「神様の言葉そのものである」と聖書は記します。

 

 ではその「神様」の言葉を信じる「信仰」を持つとは一体どういうことでしょう。「自分は赦されている」という事を知り、その赦しを行える唯一の「神様」を信じることでしょう。しかし、「神様」は私たちの前に「神様」と分かるような姿で現れてはくれるとは限りません。しかし、それが表されたのです。「イエス様」です。私たちと同じ「人」としての姿を持ち、「神様」の言葉を信じる事が、「罪」を超えて、「癒し」へと向かう姿をお示しになられます。

「イエス様」は十字架に架かり殺されても、そこから復活をされました。人間は罪の中最も辛い「死」ぬということを「イエス様」は人の子として「信仰」により誰もが「死」を超える事できるということをお示しになったのです。「死」を超える「癒し」とは、「愛」をもって、病気や怪我、現代的に言えば人間関係や金銭問題、国家体制、様々な「苦しみ」が覆えることです。生きているということが既にすべての苦しみを覆いかぶし「愛」よって「癒され」「生かされている」という途方もない、「力」を「イエス様」が私たちに告げているのです。

 

 「キリスト教」とはただの一宗教ではありません。世界の真理であると信じます。輪廻転生の仏教や、土着の神への信仰、神道にある多くの神、その宗教と「キリスト教」は決定的に違いがあります。それは、全てを行える絶対の神が、人々の悪行に対し、究極の「愛」を以て「滅び」の道から、「キリスト・イエス」をこの地上に送り、同じ人でもある「イエス様」が人間の「罪」を背負い「神様」に「愛」を示して下さいと願います。「死」という滅びを「愛」という姿で守ってくださり、人々に「愛」を以て許しの心を持つ事で世界は素晴らしい物になるのだと教えてくださりました。人が「死に」そして「復活」した宗教はキリスト教だけでしょう。わたしたちが恐れる「死」が終わりでないことを教えて下さっていることが「キリスト教」の大きな存在意義であります。

 

 人生とは不思議であり、人々は何時自分に病気や怪我、事故や事件などに巻き込まれるのか分かりません。元気いっぱいで、朝家を出た子供が飲酒運転に巻き込まれ、亡くなる。暴走行為で「命」を落とす。理不尽という声が聞こえてきます。こんな世界で、自身の権威に溺れる人間が以外にも、長寿を全うする。人間の世界で正しい生き方というのは一概になんであるのかは分かりませんが、私たちが、当たり前に「生きている」という事が、実はとても貴重なのです。「生かされている」ということが、私たちの本当の姿です。

 ただ、無意味に虚無に生きているのはありません。一人ひとり必ず、「神様」から賜物を頂いており、それを見つけ「生かされている」人生を神様と共に歩むということです。

 

 今朝の「いやすキリスト」の癒しの力は、「神様」のお力であると心から信じていなければ、癒しは行われなかったでしょう、不信仰の律法学者立やファリサイ派の人々は、癒しを行う「イエス様」を神様への冒涜である語ります。冒涜・・・・では誰ならこの「癒し」の奇跡を神様への冒涜ではないと言うのでしょうか?彼らが躓くのは、自らが信じているという神様を蔑ろにし、人間が「神様」となってしまい、「神様」の本当の狙いである、人間が罪を悔い改めて、「愛」ある生き方をすることを認められないところです。自称「愛」ある生き方をしていますというような偽善的な生き方で、周囲から褒めたたえられる事に生きがいを感じるものです。しかし、このように、心を欲望を以て頑なにしているのも実は「神様」ご自身であるのです。「神様」は人間が不信仰であるように敢えて創造それています。その不信仰というのは大変高い壁であり、出エジプトにおけるファラオの心の頑なさに見て取れます。しかし、その高く険しい壁を登り壊していく「信仰」を「イエス様」は信じています。神様の御心により人がその「不信仰」を持っているという人間性をこえて「神様」の愛によって生きるという真実に気付く存在となることを、心から期待を持っています。

最後に、「イエス様」(神様の愛)が明確に示されている箇所がございます。今朝23節『「あなたの罪は赦された」、というのと「起きて歩け」というのとどちらが易しいか』神様の「癒しの」の御力は、状態回復の以前に、人が持つ「不信仰」による自らの神格化から解放され(罪から解放)ることを「神様」からの言葉として聞き、それが自らの力では到底出来ないことで一旦潰れ、そこから「信仰」を持つ事で「愛」され「生かされている」事実に気づくのです。だからこそ、今朝の聖書個所には癒しを心から信じていた中風の人と不信仰な律法学者とファリサイ派の人々の両者が登場するのです。人間が認められない、奇跡を「人の子」としての権能と許容できるかどうか、それを一人ひとりが信じる「神様」からのものであると信じることが出来るのかどうかを問われるのです。

 

問われている、それは、私たちが「神様」から聞かれていることでありますが、私たちは、「癒し」がいつ来るのか信仰の揺らぎの中常に祈り聞いております。答えは、一人ひとり違いますが、「イエス様」が訪れて下さったことは皆同じです。「イエス様」がどの様に生きられたのか。それが答えです。

                                  祈ります。

 

 

 

 

「教えるキリスト」ルカによる福音書8415P118230205

阿久根伝道所牧師 竹花牧人

 人間は生まれる国や生まれる人種、また生まれる家庭環境(両親・・)など選ぶ事が出来ません。誰もが人間として生を受ける時、そこに神様のご意思が働き平等に「命」あるものとなります。ただ、先にも述べた、生まれた環境を選択できないという非常に残酷な現実があります。何が残酷なのか?それはあまりに多く、大雑把に言いますと環境要因を選べないという事です。しかし、「命」が神様によって誕生したのだから素晴らしいという事は真実であり大変喜ばしい事です。「イエス様」も当時衛生環境が非常に悪い馬小屋での出産でした。「イエス様」の人生は、それは、非常に酷なものでした。本日は割愛しますが。つまり、生まれてから「苦しい」「死んだ方がましだ」というように思ってしまう「命」があるのです。本日の聖書個所は、その環境要因にて、様々に辿る人生を語っています。5節『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった』6節『ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった』7節『ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった』8節『また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ』・・・・これだけでは意味が分かりにくいです。聖書は1115節にて説明をされています。それは、「種」は神の言葉という説明です。では「種」という語を「神の言葉」と差し替えて今朝の48節をもう一度読んでみましょう。あらゆる環境要因で神様の言葉が働きます。しかし、それらは、良い土地に蒔かれた言葉以外不遇な状態となり、御言葉が自身を肯定してくださるはずが、人間の自信や神様への信頼に繋がらないのです。御言葉を聞いていても後手になり誘惑や試練に負け、熱心な信仰、心の発展に繋がらないのです。しかし「イエス様」は大声でこう叫びました『聞く耳のある者は聞きなさい』と、これは、様々な苦しみもがく場所に蒔かれた種でも、良い土地に蒔かれた種でも、「神様」の声を聞こうとしなさいというのです。つまり、環境要因は、「主」へ向かう己の心によっていくらでも変化し、一人一人の「今」を幸いあるものへと変えて下さるのです。

 

 分かりづらいですね。何故「イエス様」はこのようなたとえ話をされたのでしょう?一言「神様」の声に聞き従うことが全ての悪循環を断つ、と仰ればすんなり心に入ってきます。その説明は10節『「あなたがたには、神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、彼らが見ても見えず、聞いても理解できないようになるためである」』と記されているのです。「聞く耳のあるものは聞け」とお話されている半面、「神の国」を悟るような思考がないようにする為と言われます。矛盾?話を聞けと促しておきながら、理解させないような語りを行っているのです。

 

 まず、「神様」とは聖書ではどのような方として読まれているのでしょう。旧約聖書の「神様」は天地創造の「唯一絶対の存在」であり人間をお造りになった方、そして、「選びの方」でもあり、頑なに「神」を信じないイスラエル人を反映させる約束をされる神様と書いてあります。ここで注目すべきことがあります。選びの民であるイスラエルの心を常に「頑なに」されていた方が「神様」自身であったということです。理解しがたいですが、「神様」は自らを現す時、最も「神様」から離れている人々にその存在を示し、そして「神様」が存在するという「信仰」を信じ手自らが気づくように導かれるのです。そして、「神様」の力は人間には理解できない範疇の物であり、「神様」を理解しましたから「信じます」というように人間を動かさず、「理解出来ない」ですが、どうしてか自らの心の支えとして存在している事を人自身に見つけるように促すのです。つまり、人々に「分からない」が心から信頼できる方であるというように神様を見つけるように、「神様」自身が人間を創造されたという事です。

 

 次に、お話を人間の環境要因について考えてみます。人にとって最も大切な環境要因は自分は「愛されている」と感じる環境ではないでしょうか。どんなに劣悪であっても、それこそ「死にたい」ほど、厳しいと感じる環境でも、神様は「愛している」ということを知ることが、自身を肯定してくれます。しかし、戦争や紛争、飢餓や災害、など「愛している」が何の役にたつのか?戦地では「殺さなければ、自分が殺される」そんな極限状態の中、「愛すべき兄弟姉妹」という言葉がどこに響くのでしょう。これは、「死」と「愛」という真逆のベクトルが同時に世界には存在していることを示しています。「愛していて」「愛されている」事もしっている、しかし、生きるには「殺さなければならない」・・・そんな環境要因がこの世界の姿です。しかし、私たちは知っています。生きる為に「死」を受け入れ、「愛」を貫徹された方を。それが「イエス様」です。「イエス様」は生死を伴う極限状態の中、最後まで「愛」がこの世界の環境要因の中で尊いものであることを示されました。「死」を受けれるという事は、仮に拳銃やマシンガンにて引き金を引かれれば「死ぬ」という状況の中であっても、自らは「死んでも」恨まず、手を汚してしまう、その相手がその痛みに苦しまないでほしいと望むことです。

 

 少し現実感のないお話ですので、一つ私のお話をします。私は、子供の頃から空想で遊ぶ事がとても好きでした。おもちゃや玩具を勝手もらった記憶はあまりありません。ただ、好きなアニメに自分を仲間に入れ、一緒に冒険をしていくという遊びを大人になっても未だにやります。これは、空想が自分自身でリアルなものとなってくるというのを、体験を通して知っているからだと思います。バイクが登場するアニメなら、主人公と一緒にバイクに乗りツーリングする・・・実際バイクに乗り今を楽しんでいます。新宿歌舞伎町のような繁華街で活躍する主人公がいれば、その主人公の仲間になり活動する。実際歌舞伎町をよく知る仲間が現実に出来様々な経験をしました。空想は現実とリンクするそれは体験としてあります。何の関係があるのかと言いますと、空想の中には話相手がいるのです。それが、もう一人の自分であったり、それが、「神様」であったり、実は、私は客観的にみても主観的に見ても「一人」でいるという事が多いのですが、それを「寂しい」と思ったことが一度もないのです。空想で生きそれが現実となる、そこに他人が介入することをひどく嫌悪する傾向が私にはあります。・・・・・・私の環境要因は「一人である」ということですがそこに「神様」の「愛情」があることに気づいています。

 

 お話が飛びすぎました。つまり、「神様」の示す、「愛」ある環境要因に気づいているので、それを人間がかき乱す程度の事では決して揺るがず(揺らぐはずもない)仮に私は茨に落ちた種でも押しつぶされてしまう前に「イエス様」の「聞く耳を持つ物は聞きなさい」という言葉に応えようとします。

 

 

 分からない、知りえることも出来ない、しかしそれが人間です。「神様」はあえてそのように人間を創造されました。しかし、無知である事を「神様」は決して馬鹿にはせず、不完全さに愛情を以て接してくださいます。今朝の「キリストの教え」とは、この神様の御言葉を私たちにはっきりと伝えているのです。環境要因は「神様」と共にあって形を変えて、一人一人あった物を必ず得る事が出来ると信じます。「生まれて」全てが決まったように見える世界は、神様の声にて変わります。「死」すらも変えられたように。どうか、「神様の声が「理解」できなくとも、「私」達に向かってそばにある事を信じましょう。     祈ります。


「新しい神殿」ルカによる福音書2119P151230129阿久根伝道所牧師竹花牧人

 本日は三パートからお話を致します。

1、この地球の中で現存する一番強固な物質とは何でしょう?それは、「ウルツァイト窒化ホウ素」と言われ、この物質を加工(焼結)した工具は焼入鋼などの切断に使用されます。ダイヤよりも固く、この工具は人間が持ちうる最硬度の加工品であります。さて、化学的なお話で初めましたが、人間は太古の昔から、多くの発見をしそれらを用いてさらに新しい発見するという事を繰り返し、人間社会の文明を築いてきました。鉄はヒッタイト人が初めて用いて当時の青銅の加工品が中心の世界に激震を走らせました。戦争では鉄器が猛威を振るい多くの国々がその加工技術を取得しようとやっきになります。そして行き着くのは安価で強固な物です。低コストハイリターンです。・・・・結局人間は便利も安く買いたい、そのように考えるわけです。しかし、この発想が、人間の本質をあらわにしており、私たちがキリスト教という宗教を信じるか又は、信じようとする時、信仰を安く買おうという動きを見せるのです。そもそも、信じる心に人間の物質的な富は必要ありません。「神様」は言いました。『人はパンだけで生きるのではない御言葉によって生きるのです』。生きるている信仰(パンだけではない)と死んでいる信仰(パンのみ)と乱暴に分けるとしたら、この、二つの信仰を考える時、「神様」を信じるという事は、お金で買って得られる物ではなく、また、その金額の大小でも決してないのです。パンを買うお金をより多く持っている事ではなく、何も持っていなくても、神様の御心を信じあるがままの自分自身を受け入れ、「神様」に尽くすことなのです。今朝の最初の4節『あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである』。今の自分を決して否定せず、「生かされている」事に感謝し、金額ではなく全身全霊の感謝の気持ちを持つ事を「神様」は受け入れて下さるのです。

 

2、芸出を英語でアートと言いますね。アーティストには画家や音楽家がおり、何かしらの表現者達です。しかし、彼ら(彼女ら)の作品が必ずしも時代の中で称賛されるわけではありません。作者没後100年を経過して、再評価され天才だと言われる芸出家も多く存在します。建築家も芸術家と言えるでしょう。この表現者の共通している部分は、自身ではまだ完成されていないとみなす作者がいるという事です。ガウニーのサグラダファミリアは未だに建設途中です(有名です)つまり、何が言いたいかと言いますと、人間が作成するものは、本人ですら完成したと認める事が出来ない程の不完全さが入り乱れているという事です。そして、それは完全な物は決して人間には作れないということを意味しています。完璧ではない、だから芸術なのです。では、今朝の聖書個所に登場した神殿の装飾に目を奪われていたという記事はどう読めるでしょう。神殿が煌びやかに飾られ、建物に完璧な物と、価値を付けたと読めないでしょうか。神殿の作成者がそもそも、自らの建物に「私」のみの基準で評価をしていたとは私には読めません。ユダヤ教の世界であった当時のイスラエルには「信仰」の基礎をもって祭具や神殿などは造られ用いられていたはずです。それならば、神殿が完璧であるには、「神様」の祝福が存在し初めて完成するはずです。しかし、人間の価値基準で豪華という判断してしまう事は、それが如何にして完成されうるべきものであるのかを暈してしまっています。「神様」はどこに行ってしまったのでしょうか?つまり、人間の社会での作り物は人間が人間の価値基準で評価され、人がいなければ人の評価は存在しえない、大変小さなコミュニティでの価値観なのです。しかし、今朝はその価値感が崩され、人間がいなくても、完全に支えられ、不完全な物が完全へと向かう日が来るということを聖書は語るのです。5節『ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた』6節『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る』。

 

 3、今朝は三つのパートで分けてお話をしています。三つ目です。不完全な物が完全へと向かう日それは、「罪」から解放され、救いの日が訪れるという事を示唆しています。人間が持つ罪とはあまりに多く、何がいけない事なのかと聞かれれば、当時のイスラエルでは「律法」に書いてあるというでしょうと答えます。しかし、「律法」だけでは完全ではないことを、「イエス様」はお話しています。ある金持ちの男が、「どうすれば、天の国に入ることが出来ますか」とイエス様に尋ねました。イエス様はこう返答されます。「律法」に書いてあることを守りなさい。と、さらに、男はこう述べます「それらの事は全て守っております」と、すると、イエス様は「では、あなたの持ち物全てを貧しい者達に差し上げなさい」と語りました。それを聞いた男は、肩を落とし去って行きました。男はお金持ちだったからです。つまり、「神様」の前でなにもかも捨て裸の状態でいなければいけないというのです。しかし、これは、無理です。人間は衣食住にお金がかかります。何もない状態を聖書では、当時の時代背景によって可能であると言っていると読んでしまっては、現代人はほぼ全て「天の国」には入れません。「イエス様」はかっこよく言えば「寅さん」、しかし、はっきり言うならば、その日暮らしをする非常に貧しい方でした。しかし、貧しい中で共に苦しんで下さる人々の共感者であったのは事実です。その「イエス様」が警告しました。いつその日が来るのですか、という問いと共にどのような徴がありますかという質問にこう返答します。8節『イエスは言われた「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、わたしがそれだ、とか、時が近づいたとか言うが、ついていってはならない9節戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである』

 明確に「その日」がいつ来るのかを仰りませんでした。逆に、世の中が混乱する事態に世界が遭遇した時こそ、それに惑わされてはいけないと語られたのです。混乱イコール徴では決してありません。つまり、いつ来るかはわからないのです。だから、私たちは「その日」がいつ来ても良いように準備をしておくが非常に大切になるのです。これは、終活に似ています。終活はその人がいつか訪れる人間社会との別れに向かって準備し、その日を迎える為に、人生の中でのあらゆる関係性のある物事を整理しおくものです。いつ来るのか分からないというのは、「イエス様」が語る「その日」の到来の日が分からないという点で似ています。しかし、「死ぬ」という事が「天の国」へと向かうことと、判断することは出来ません。私たちは、残された立場からの物言いで、「天国」に行きますようにと祈りますが、それが、「イエス様」のお話された「その日」であるのかは分からないのです。「生」がある時に、世界に大変革が起こり、「約束の日」が来るのかもしれません。実はもう到来しているのかもしれません。

 

 本日は三パートに分けてお話をしましたが、「新しい神殿」というタイトルに密接に関係してくるお話です。神殿は富ではなく、「信仰」であり、その信仰は「神様」によって執り成して頂き、「その日」がくるまで「神様」への信仰を保ちなさいというのです。どうか、「イエス様」のお言葉を忘れずに「その日」を見誤らずに何時きても良い準備をいたしましょう。 祈ります。